2008年7月18日金曜日

野球:野茂引退 トルネード、日米に旋風 ノーヒット・ノーラン2度

(毎日 7月18日)

日本球界から米大リーグへの道を切り開いたパイオニアが、
ユニホームを脱ぐ。
元大リーガー、野茂英雄投手(39)が17日、現役引退を表明。
日本の「輸入」一色だった日米間の選手の動きに、
新風を吹き込んで十数年。
多くの日本人選手の先駆けとなる足跡を残し、
日米通算19年のプロ生活に終止符を打つ。

◇「野球が好き」 いつまでも少年の心で

野茂は少年時代、父から「大きなフォームで投げなさい」と助言された
トルネード(竜巻)投法で、ミット目掛けて白球を投げ込んだ。
五輪代表にも選ばれた新日鉄堺時代、たまの休日も野球ゲームに熱中。
日米通算201勝を挙げる大投手となった40歳間近の今も、
「野球が好き」と何のてらいもなく言える。
野茂は、少年のころに出会った宝物を大切にし、
それ以外のものは求めない「足るを知る」生き方をしてきた。

95年、ストライキ明けの大リーグにファンを取り戻した「メジャーの救世主」や、
日本人大リーガーの先駆けとなった「開拓者」といった肩書さえ、
野茂本人には実感が伴わない言葉だろう。
どきどきさせてくれるものに素直に従おうとする、飾り気のない少年の心。
右肩の手術を経るなどして球威が衰え、受け入れてくれるメジャー球団が
見つからず、現役引退を決断したが、私財を投じて堺市に創設した
「NOMOベースボールクラブ」を拠点に、今後も野球とかかわり続けていく。

堺市にあるNOMOクラブのグラウンドは、野茂が新日鉄堺時代に
メジャーへ羽ばたく基礎をつくった土地。
工場群に囲まれ、日が落ちると、球音しか聞こえなくなる。
寡黙で不器用で洗練されていないが、一つの道を真っすぐに進む
野茂の背中を追いかけて、高校中退などで野球をする機会を奪われた
若者たちが、今もここに集まる。
「現役の間は、僕自身は直接活動に携われないが、
これからも地域に密着してやっていきたい」と語っていた野茂は、
自分を育ててくれた場所に戻り、宝物を磨き続けていく。

◇「今こそ胸を張れ」--功績たたえる声、続々

野茂の引退表明には惜しむ声と、功績をたたえる声が相次いだ。

88年ソウル五輪投手コーチの山中正竹・横浜球団常務は、
大リーグで活躍していた野茂に、「野球界にとって王、長嶋クラスの
功労者なのだから、活躍ができなくなっても堂々と胸を張っていなさい」。
引退を決めた今こそ、「胸を張ってほしい」。

近鉄時代の先輩、吉井・日本ハム投手コーチは、
「大リーグでは、引退した選手が復帰することはよくある。
また復帰しちゃうかも」。
「本当にやめるのなら、『おめでとう』と言いたい。
あれだけ成功したのだから」と、労をねぎらった。

近鉄時代のコンディショニングコーチだった
立花龍司・ロッテヘッドコンディショニングコーチは、
「絶対にトレーニングを休まない野茂を見て、トレーニングをする選手が増え、
選手寿命を長くしてくれた」と、野茂の野球に対する姿勢を評価。
野茂が入団した時に、仰木彬監督(当時)から
「あいつは腰をひねって投げることで、(ドラフト)1位で入ってきた。
(フォームは)直させないから、壊れるかもしれん。
しっかりトレーニングさせてくれ」と言われた。
投手の練習といえば、キャッチボールとランニングくらいの時代。
「日本で初めてトレーニングしながら投げた」。

社会人野球の新日鉄堺監督時代に野茂を発掘し、入社を勧めた
浜崎満重さん(現宮崎・延岡学園高監督)が、初めて野茂の投球を見たのは
大阪・成城工1年生の秋。
「モノが違った。あれだけ体をひねるのに、軸足がぶれない。
将来すごい投手になる可能性があると思った」。

◇ソフトバンク・王監督

日本野球が米国と比べ、そん色のないレベルにあることを示してくれた。
そのことが、後の選手の意欲をかきたてた。
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◇日本球界の力証明--入札制度導入、移籍、一気に加速

野茂が、95年にドジャース入りしたことをきっかけに、
日本球界は加速度的にグローバル化の波にのみ込まれることに。

90年に近鉄でデビューした野茂は、5年間で78勝をマーク。
しかし、複数年契約を求めるなどして球団と対立した末、
任意引退の形で、95年に大リーグへ渡った。
野茂以前、日本人大リーガーは64~65年にジャイアンツに在籍した
村上雅則氏1人で、日本人選手が通用するかどうかは未知数だったが、
野茂はメジャー1年目から最多奪三振のタイトルに輝き、新人王も受賞。

それまで「輸入」一辺倒だった日米間の移籍が、野茂の成功後に変わり、
日本人選手の米国流出が一気に進んだ。
フリーエージェント(FA)権のない選手の移籍に関するルールが
整備されていなかったため、ロッテのエースだった伊良部が、
球団とけんか別れの形で渡米するなどトラブルが相次ぎ、
98年のオフに「入札制度」(ポスティング・システム)が導入。

00年オフ、イチローが日本人選手として初めて入札制度でマリナーズ入り。
06年オフ、松坂が5111万ドル(約60億円)の史上最高落札額で
レッドソックスに入団。
経営難の日本球団が入札制度を利用し、高値で売れる時に手放そうとして、
移籍の容認を早める動きが加速する傾向。

選手供給源と市場の米国外への拡大を進めていた大リーグは、
野茂の成功に刺激され、本格的に日本に目を向けた。
06年に開催された第1回の国・地域別対抗戦「WBC」で、
日本が優勝し、技術の高さを証明したことで、
日本人選手の人気に拍車がかかった。

07年オフ、FA宣言した福留、黒田を巡り、日米球団が争奪戦を繰り広げ、
昨年の総収入が60億ドル(約6300億円)という好況を背景に
圧倒的な資金力を誇る大リーグ側が、両選手とも獲得。
「野茂の開いた道」は、大リーグの思惑もあり、拡大する一方にある。

http://mainichi.jp/enta/sports/baseball/pro/archive/news/2008/07/18/20080718ddm035050068000c.html

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