2007年11月11日日曜日

聖路加国際病院理事長・日野原重明さん 今、平和を語る

(毎日新聞 2007年10月29日)

聖路加国際病院理事長の日野原重明さん(96)が、
75歳以上をシニア会員とする「新老人の会」を設立して7年。
活動の大きな柱に、
「将来の日本を担う子どもたちに平和のメッセージを伝える」。

--小学生に平和のメッセージを伝える意義を。

日野原 僕たち大人は、世界の平和を実現できなかった。
戦争を体験した「新老人」は、想像を絶する苦しみや悲しみを味わいながら、
地上から戦争をなくせないできた。
子どもたちに託すしかないではありませんか。
75歳以上の戦争体験者が将来の日本をつくる子どもたちに、
戦争の悲惨さと人間のいのちの大切さを直接語りかける、
これは大変有意義なことです。

--日野原さんご自身も多忙なスケジュールの合間を縫って、
全国各地の小学校に出前授業に行かれています。

日野原 「新老人」の使命ですから。
訪問した小学校の校歌を歌いながら登場し、教壇に足を上げてみせる。
子どもたちは僕の年齢を知っていますから、それは驚きますよ。
何歳まで生きたいですかと聞くと、100歳とか120歳と答える子。
僕を見てのことですね。

そこで、いのちについて考える。

いのちは、人間に与えられた時間だから、とてもかけがえのないもので、
どのように使うかが大切だと話します。
どのようないのちも粗末にしてはいけない、奪ってはいけないと伝えるのです。
一度に大勢のいのちを奪うのが、戦争です。
戦争だけは絶対にやってはいけない、反対しなければいけないと語りかけると、
しっかりとうなずいてくれます。心強い。
手紙をたくさんもらいますが、僕をモデルにしてくれるのはうれしいですね。

--いのちについての考え方は、
よど号ハイジャック事件(1970年3月)に遭遇した経験によるとか。

日野原 58歳のとき。福岡での内科学会に向かう途中にハイジャックされ、
韓国の金浦空港で3晩過ごしたのですが、
相手は武装しているのだから、さからってはダメだと思いました。
生き延びることができてから、与えられたいのちだと考えるようになり、
このいのちを人のために使おうと心に決めました。

--徹底した非暴力主義を通されています。

日野原 子どもたちには、こう話しています。
けんかをして殴られたら、仕返しをしたくなるだろうが、応戦しないでほしい。
恨みが恨みを呼んで、報復がいつまでも続く、これが大人の戦争です。
恨みの悲劇的な連鎖を断ち切るには、「恕(ゆる)しの心」しかありません。
平和の実現には、犠牲がつきものです。
相手を恕す勇気と暴力や武器を放棄しても、
負けない精神力とをあわせもって、初めて平和は実現するのでは。

インドにガンジー、アメリカにキング牧師という非暴力主義者のモデルがいます。
暗殺されましたが、2人の魂は生き残って世界に大きな影響を与えています。
犠牲を覚悟のうえで平和行動を起こせば、必ず地上に平和は訪れる。
僕は日本の子どもたちに期待しているのです。

--日本の憲法については、どうみていますか。

日野原 世界中でこれほど先進的な憲法はないでしょう。
犠牲を強いられても、この憲法を永続させていかなくてはならない。
今の世の中の動きは、「いつか来た道」を感じさせてやまない。
日本は、積極的に他国に攻め入らないでしょうが、
米軍と一緒に戦う道を選ぶ可能性はありますね。とんでもないことですよ。
日本から米軍基地を撤去してほしい、
そのための費用がなければ、税金を上げてもいい。

--自衛隊については。

日野原 自衛のための軍隊も持つべきではない。
戦争は、決まって自衛のためだと言って起こる。
何かを契機に拡大路線に走るのは歴史が証明している。
軍力で相手を封じ込めても、そこには軋轢が生まれるだけで、
真の平和にはつながりません。
自衛隊は、国内外での災害や事故の救助隊に徹すればいい。

若者たちも、徴兵制の代わりに、海外ボランティアを義務づけては。
発展途上国の現実をみて、苦労して帰国したら、とても素晴らしい。
これは勇気ある実験です。
こうした行動を世界に先駆けて行う国を攻撃したらどうなるか、
そんなことはできないという世界の世論をつくるべきです。

--医学的な見地から。

日野原 最高の公衆衛生は、というと、戦争がない状態におくこと。
予防医学で必要なのは、水や空気をきれいにする前に戦争をしなければいい。
戦争難民が出ないし、ベトナム戦争の枯れ葉剤のような被害もない。
いま地上から戦争がなくなれば、公衆衛生が達成される。

--2005年に広島で、指揮者の小沢征爾さんと平和コンサートを開きました。
広島への思いは強いですね。

日野原 牧師だった父親が広島女学院の院長をしていました。
原爆で町が焼き尽くされ、352人の生徒らが犠牲になったことを、
父は深く悲しんでいました。
父の怒りと悲しみを見てきて、広島で平和イベントをしたいと考えていた。
今までのような原爆反対や核兵器反対の運動ではなく、
愛のメッセージと音楽でいのちの尊厳を訴える企画に。

子どもたちを通して、世界に平和を発信する
世界へおくる平和のメッセージ」に力を入れたものです。
4年後の2011年秋に、再びやることに決まりました。
そのとき僕は100歳です。

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■人物略歴

1911年山口県生まれ。京都帝大医学部を卒業後、
41年に聖路加国際病院の内科医となり内科医長、院長を歴任。
05年に文化勲章を受章。今春から日本ユニセフ協会大使に就任。
ベストセラー「生きかた上手」(ユーリーグ)、
「私が人生の旅で学んだこと」(集英社文庫)、
「十歳のきみへ--九十五歳のわたしから」(冨山房インターナショナル)など。

http://www.m3.com/news/news.jsp?sourceType=GENERAL&categoryId=&articleId=59514

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