2009年6月20日土曜日

ポスト京都、本当の負担は10倍?

(日経 2009-06-08)

「温暖化対策は、何をやるにしても(国民に)負担を求める」
地球温暖化問題に関する懇談会で、麻生太郎首相は締めくくった。
削減目標を決め、来るべき負担の覚悟を固めるには、
まず今の立ち位置を正確に把握しておく必要。

2020年に向けた温暖化ガス削減の中期目標の論議で、
「1990年比4%増」、「1990年比25%減」など様々な数字が飛び交った。
忘れがちなことに、「ゲタ」と「真水」の話がある。

京都議定書で、日本に課されている削減目標(2008~12年平均)は、
90年比6%減。
2020年の削減目標では、「90年比7%減」案を軸。
表面的な数値から、2つの目標にわずかな差しかないようだ。

京都議定書の6%減には、森林のCO2吸収分や海外から調達する
排出枠分の計5.4%分が算入。
実際に必要なのは、0.6%分の削減努力で、高ゲタをはいているよう。

森林吸収や排出枠を削減量にカウントできるのは、
京都議定書の枠組み内の話。
次期枠組みに、現状のまま引き継がれるかどうかは決まっていない。
「2020年に90年比7%減」という場合、掛け値なしの削減を指し、
森林吸収や排出枠は未確定の「外数」にすぎない。
7%減でも、京都議定書の目標達成に、10倍以上の努力が必要。

中期目標に関する世論調査では、削減目標の選択肢を示す際、
「真水問題」を必ずしも明示していない。
「真水」で7%減を達成するには、一段と強い覚悟が必要。

電気事業連合会と日本鉄鋼連盟は、自らの環境自主行動計画を
達成するため、12年までに2億4900万トンの排出枠を購入する契約。
これは、3.9%分のゲタに相当。

京都議定書の目標達成に必要な実質削減努力とした0.6%分は、
もう排出枠でカバーできる。
90年基準排出量に対し、3.3%増までは手当てができている。
ポスト京都の削減目標が7%減の場合、
現実には「真水で最大10.3%減」というインパクト。

3.3%増まで許容されているという構図は、
日本経団連などが中期目標の選択肢で支持を打ち出した
「90年比4%増」案とほぼ合致。

将来を見据え、「2020年に90年比25%減」など高い削減目標を
掲げねばならないという“must”発想の環境団体や、
「90年比4%増」など現時点で開発が見通せている技術を積み上げて
可能な範囲で対応していこうという“able”思考の企業はもとより、
広く国民合意を形成するには議論の発射台を共有することが大原則。
議論の条件整備が不十分だった感は否めない。

地球の平均気温を何度下げる必要があるかといった「科学の要請」や、
欧米と同等の削減負担にしなければならない「国際公平性」の論議も重要。

現状認識を異にしたまま政府が、削減目標案ごとに示した太陽光発電や
エコカー導入量など、削減努力の想定を目にしても、
「6%減から7%減へ」と思って見る人と、「3%増から7%減へ」と思って
見る人とでは、削減に臨む危機感が違ってくる。

政府は近く中期目標を決定するが、後で「聞いてなかった」という声が
わき上がってこなければよいのだが・・・。

http://netplus.nikkei.co.jp/ssbiz/tanso/tan090604.html

挑戦のとき/11 科学技術振興機構研究員・神原陽一さん

(毎日 6月9日)

極低温に冷やすと、電気抵抗がゼロになる超電導物質。
送電ロスのない電線や、磁力で車体を浮かせて走る
リニアモーターカー用の電磁石などへの応用を目指し、
より高い温度で超電導になる物質を探す競争が、
世界で繰り広げられている。

08年2月、米化学会誌に発表された神原さんらの論文が
学界に衝撃を与えた。
超電導には不向きと考えられていた鉄を含む化合物が、
絶対温度32度(セ氏マイナス241度)という
比較的高い温度で超電導に。

米国の文献情報会社によると、この論文は08年に発表された
科学論文の中で、他の論文に引用された回数が最も多かった。
論文の引用回数は、その研究の与えた影響力を物語る。
神原さんは、「これで10年くらいは、研究者として頑張ってみようと思った」

いわゆる「理科少年」ではなかった。
高校時代、理科の先生が実験を多く取り入れてくれたことで、
「実証的だ」と興味はわいた。
理系に進んだのは、「英単語や歴史の年号の暗記が苦手で」という
消極的理由だった。

「物好き」を自認する。
高校で山岳部に入ったのも、「わざわざ30キロの荷物を担いで
苦労する状況が面白かった」からで、
材料科学の道を選んだのも、「役に立たないかもしれないことに
一生懸命になれる物好きに向いている」と思ったからだ。

仕事に名前が残る研究者に魅力を感じ、博士号取得後、
第一人者の細野秀雄・東京工業大教授の研究室に飛び込んだ。
さまざまな物質を乳鉢ですり、混ぜて焼成し、電気抵抗や磁性などの
特性を測る地道な作業の繰り返し。

どこに宝が潜んでいるかは分からない。
「錬金術のような面白さがある。バクチみたいだが、
当てる人は何度も当てている。
物質の選択、合成の条件を詰めるには、高度なノウハウが必要」

超電導になる温度は十数年前、高圧下の銅系酸化物が
絶対温度160度を記録した後、更新がない。
神原さんらの発見は、手詰まり気味だった学界に
「新鉱脈」と受け止められ、再び競争が激化。

1カ月後、中国のグループが鉄系でさらに高い温度で
超電導になる物質を報告。
「恐ろしい勢いで論文が出て、追い抜かれた。
3月からの3カ月は悪夢だった」

今、鉄系の物質は、超電導になる温度が絶対温度55度で頭打ち状態。
冷却に安価な液体窒素が使える絶対温度77度が、当面の目標。
神原さんは、「もう一工夫がいる。何とか壁を越える物質を探したい」と
新たな挑戦を続けている。
==============
◇かみはら・よういち

東京都町田市で育つ。05年に慶応大大学院で工学博士号取得後、
科学技術振興機構の任期付き研究員として東京工業大で研究。

http://mainichi.jp/select/science/rikei/news/20090609ddm016040131000c.html

アルツハイマー病関連のたんぱく質、阪大グループ発見

(朝日 2009年6月10日)

アルツハイマー病に関係するとみられるたんぱく質を、
大阪大の研究グループが新たに見つけた。

このたんぱく質の量の変化を調べることで、
早期診断に利用できる可能性がある。
欧州分子生物学機構の学術誌(電子版)で10日発表。

脳神経細胞が死んでいくアルツハイマー病は、
体内で「アミロイドβ」というたんぱく質が増え、脳に老人斑と呼ばれる
特徴的な染みをつくる。
脳を守る脳脊髄液などから、このたんぱく質の量の変化を調べ、
診断につなげる研究が進んでいる。

多くが脳に蓄積されてしまうアミロイドβは、特に初期段階では
量の変化がわかりにくく、病気の早期発見が難しいことが課題。

阪大の大河内正康講師(精神医学)らは、脳に蓄積しない性質を持つ
「APL1β」というたんぱく質が、患者の脳脊髄液にあるのを発見。
このたんぱく質の増加と病気の進行度が一致。
このたんぱく質は、発症の少なくとも2~3年前から増え始める。
これを目印にすれば、アルツハイマー病の早期診断に使える可能性がある。

大河内さんは、「脳脊髄液は、腰に針を刺して採取する必要があるが、
診断自体はすでに実用化できるレベル。
早期診断が実現すれば、将来アルツハイマー病になるのを防いだり、
遅らせたりする治療法の開発にもつながるはず」

http://www.asahi.com/science/update/0610/OSK200906100026.html

東京五輪招致:安定財政アピール…IOC委員へプレゼン

(毎日 6月17日)

16年夏季五輪招致を目指す4都市の国際オリンピック委員会(IOC)
のプレゼンテーションで、東京招致委員会は安定した財政、環境、
選手本位の大会と多角的にアピール。

IOCのロゲ会長は、財政を強調する招致活動にクギを刺し、
改めて決め手の見えない招致活動の難しさが浮き彫りに。

ロゲ会長は、「経済的な側面を決定的な要因にすべきではない。
過去においても、我々は必ずしも財政的に最も豊かな都市を
支持したわけではない」、
「何よりも、アスリートのための大会かどうかだ。
温かい観客の存在も重要だ」とメッセージ。

東京は、国内の支持率などの課題も残っている。
プレゼンでは、東京招致委の電話調査で80.9%の支持率を得たと説明、
IOCの独自調査では60%を下回っている。
都内では、積極的なPR活動を展開しているものの、
海外のライバル都市に比べて見劣り感は否めない。
「アスリートたちのひのき舞台」をコンセプトに掲げて、
「選手を最優先に考える大会を強調した」(河野一郎事務総長)、
引き続き市民の理解という宿題が残っている。

シカゴは4都市で唯一、国家レベルの財政保証がないが、
民間企業とのパートナーシップを強調。
国際的に人気の高いオバマ米大統領を前面に押し出した。

インフラ(社会基盤)整備に多額の予算が計上され、
世界的な金融危機の影響が懸念されるリオデジャネイロは、
南米初の五輪開催を訴えた。

12年ロンドン五輪に続く欧州開催がマイナス材料とされるマドリードは、
IOC委員を多数擁する欧州の全面的バックアップを受け、
市民の支持率の高さも好材料に。

◇石原知事「緻密で完ぺき」

東京のプレゼンは、計画説明と質疑応答の持ち時間1時間半を
使い切らず、15分早く終わった。
石原知事は、「楽しい経験だった。緻密で完ぺきだったと思う」

IOC委員からは、馬術に参加する馬の検疫体制や、
夏の暑さに関する質問も出たというが、
招致委の河野事務総長は、「すべての質問に答えられたと思う」

IOCのペルニラ・ウィバーグ委員(スウェーデン)は、
「東京は、スタジアムにソーラーパネルを設置するという話が
印象的でよかった」と、環境を重視したプレゼンに一定の評価。
リマ・ベロ委員(ポルトガル)は、「何も新しいことはなかったが、
疑問には明確に答えていた」、
他都市との比較については、「比較は(IOC総会の1カ月前に公表される)
評価委の報告書が出てから」と慎重。

http://mainichi.jp/enta/sports/general/news/20090618k0000m050119000c.html

特集:後藤新平の真髄09 結婚相手は安場和子

(岩手日日 2009年4月2日~)

愛知県病院時代の新平にとって、おそらく衝撃的な事件とも
いえるものは、ローレツ博士から言われた
「近親者同士の結婚は不道徳だ」と忠告されたこと。

父十右衛門は、新平の母の実家である坂野家の娘ひでを
嫁にもらうことで話を進めた。
従兄妹同士の結婚になるわけだが、幼少の頃から顔なじみで、
新平はひでとの結婚を当然のように思っていた。

坂野家、後藤家とも双方に問題があった。
坂野家が、初め新平とひでとの婚約を破棄しておきながら
復活しようと計ったこと。曲折があって、縁談は復活。

新平と坂野ひでとの結婚手続きは、婿出席がないまま、
明治13年11月に行われた。親の手元で結婚が進められた。
明治14年1月、十右衛門が急病との電報によって
水沢に呼び寄せられ、自分の妻となるひでを見た。
1年後に新平は、彼女を離縁すると言い出した。
十右衛門と新平との間にいざこざがあって、新平はひでとの離婚が実現。

ここに至るまでには、ローレツ博士の「近親結婚」は不道徳、という発言が
あったことが決定的要因に。

新平は、明治16年9月、27歳の時、安場保和の二女和子と結婚。
和子は9歳若かった。
安場と新平の信頼感が、いかに強かったかを知ることができる。
新平と和子さんの結婚式の写真は実にいい。

◆暴漢が板垣退助を襲う

明治13年3月、安場は、元老院議員に栄転して名古屋を去る。
後藤新平と和子の結婚式を挙げる前の明治14年9月。
全国的に自由民権運動を展開しようと、
板垣退助は同志とともに土佐の高知を出た。
藩閥政治の積弊に苦しんでいた住民は、歓呼して板垣を迎えた。

10月、自由党は創立、板垣は総理となった。
自由党設立後、板垣は全国遊説の途に着いた。
静岡、名古屋と遊説して、明治14年4月5日、岐阜に入った。
岐阜市今小町の玉井屋旅館に一泊後、
板垣一行は濃飛自由党懇親会会場に向かった。
懇親会は、午後3時から始まり聴衆は約300人。
地元の濃飛自由党役員岩田徳義の開会挨拶に続いて
党員演説、板垣退助が立ち上がった。

板垣は、「本日、諸君の御招待を得まして、
この懇親会の盛宴に連なることができたのは、光栄の至り。
天下国家のために尽くすところあらんと望んでおられようが、
一言、平素の所懷を述べて歓迎のご好意に酬いたいと思う次第です。
世人は、自由党をめざして政府を転覆し、
天皇の地位を危うくしようとする暴徒の集まりであるかのように
言いふらしております。
われわれは左様なことは、全く考えない。
願いはひとりひとりが、餓えることなく、こごえることなく、
安らかに生を楽しむることができるように、政治が行われること」

板垣はおだやかで、政談演説というより学術講演に近かった。
「人間界の出来事は、しばしば天地自然の現象と同じ原理に
支配されることがある。天体の運行が、遠心力と求心力の調和によって
保たれることは、諸君御承知の通りですが、
人間社会においても、同様のことが行われている。
天皇を中心とする求心力と、人民の自治を望む遠心力が均衡を保って、
ここにはじめて円満なる政治が行なわれる」

板垣は、たくみに比喩をもちいながら立憲政治の本質を説き、
演壇を立ち去った。
1時間にわたる演説を終え、板垣が控え室へ戻ると、
随行の幹部、地元有志が演説に対する称賛と感嘆の声を上げた。
板垣は、「風邪気味なので一足先に失礼して…」と見送りを断った。
そして一人玄関に出た。

板垣が歩き出したところへ、横合いから飛び出した男が。
反射的に逃げ出そうとした。
その瞬間、間近に迫った男が板垣の胸元へ短刀を突き立てた。

◆新平に往診要請が再三

閑話休題-。
「戦い終わって日が暮れて」-。
昭和20年8月15日は、当時の人達にとっては思い出が多い。
翌21年4月、松岡修太郎京城帝国大学教授が、
朝鮮から引き揚げて盛岡中学校の校長となった。

松岡校長の試みとして、外部から講師を呼び、
一種の“教養”大学講座を設けた。
昭和23年2月、5年生を対象に開いたのは、「騎士道」、「新民法」、
「新渡戸稲造」の講座。
講師は、中村金雄、中川善之助、益富政助の3氏。
中村さんは、ボクシングの世界チャンピオン、
中川さんは東北大教授で民法の権威、
益富さんはキリスト教鉄道青年協会の理事長。

内容は忘れた。
中川教授が言ったことの一言が、後藤新平に対する
ローレツ忠告とともに蘇った。
中川教授が、戦後の民法では結婚は両姓の合意で
成立することになったと強調したこと。
後藤新平は初め、親が言うように従兄妹結婚に踏み切った。
その後に別れたが、ローレツ忠告に従ったもの。

話を元に戻そう。
板垣退助から往診を求める電話がかかってくる。
後藤は、やむを得ず岐阜へ電報を打って往診を断った。
岐阜からは再三電報があり、板垣の傷は肺にかかっている疑いもあると、
強く往診を求められた。
新平は、こうまでいわれては動かざるを得ない。
板垣が企てていることが、革命か反乱か知れないが、
維新に功労のあった人。
再三懇望されて行かないという手はない。
覚悟を決めて急に仕度を整え、明治14年4月6日、
夜中の3時ごろ名古屋を立った。

板垣が泊まっている玉井屋旅館へ着くと、上を下への大騒ぎ。
板垣の部屋へ足を踏み入れた後藤新平は、
大勢の視線を受けてたじろいだ。
が、そこは新平である。
板垣の枕頭に寄って、「御負傷、御本望でしょう」といった。

「板垣死すとも自由は死せず」と板垣は言ったという。
後年、新平は周辺を見回して環境の不潔さを目に留め、
衛生が劣悪なのに、「なにが自由か…」と言ったと。
いかにも新平らしい。
ローレツに師事したことで、公衆衛生の重要性を学んだ新平ならではの発言。

http://www.iwanichi.co.jp/feature/gotou/item_12593.html

2009年6月19日金曜日

特集:後藤新平の真髄08 師ローレツとの出会い

(岩手日日 2009年4月2日~)

後藤新平は、安場保和の後押しで、
勉学の機会を与えられて出世街道を歩んだ。

須賀川医学校で医学を学び、外科医として手腕を発揮、
衛生行政官として、台湾民政長官として植民地行政にも力を尽くした。
総理大臣になるべき人物であったと言われている。
彼の業績を顧みて、大風呂敷の後藤新平という評価もあるが、
「日本の設計者」新平という見方が強まっている。
そのように言われるが、本当に医者としてはどうだったのか?

◆博士の忠告で婚姻破棄

杉森久英著『大風呂敷(上)』に、こういう話。
新平は、安場が愛知県知事になって愛知病院に勤務するが、
師ローレツ博士に、「あなたは結婚についてどう考えているか?」と聞かれ、
「私には、婚約者がいる」
「それはいいこと。そのお嬢さんはどこの人か?」
「郷里の水沢にいる。私達が幼かったころ、親同士の約束で決めた」

ローレツは、「日本の人は、よく親の意思で結婚する。
ヨーロッパでは、本人が知らないのに親が決めるということはない」
新平は、「日本人は、親の判断は狂わないと思っている」
ローレツは、「結婚は、お互いの人格の結合。
品物を買うように、判断したり選択したりして決めるものではない」
「人格の結合という点で、心配ない。
私達は従兄妹同士で、子供のときからよく知っています」

ローレツは、恐怖に似た声をあげ、「本当に従妹と結婚するのか?」
「そうです」と新平が平然というと、
ローレツは、「後藤さん、近親結婚は不道徳です」と反論。

新平は、「従兄妹は、近親とはいえないのでは?
日本では、従兄妹同士は気心が知れていいと結婚する」
ローレツは、「それは野蛮な風習。遺伝学について学んだか?」
「須賀川医学校では、概略の講義を受けたが、
従兄妹同士の結婚については何も教わらない」

ローレツは、「あなたは今からでも勉強しなさい。
ヨーロッパでは、従兄妹同士の結婚にいろいろな報告や統計が発表、
近親結婚には、不妊症、早産、畸形、てんかん、白痴等の例が非常に多い。
従兄妹同士が結婚したときも同様」と説明、
新平は真面目に聞く気になった。

新平は、事の重大さに気がついた。
ローレツから、「残念ながら、私達の学問はその理由を
説明できるほど進歩していない。
今のところ、ただ臨床的な経験によって推定しうるだけ。
しかし、事実を否定することはできません」
これを聞いて、新平は郷里の父母に、縁談に不承知と手紙を書き送った。

◆西洋医学と衛生行政、指導

アルブレヒト・フォン・ローレツは、明治7年、
オーストリア帝国領事館付医官として28歳で来日。
目的は、博物学研究調査、特に自然科学の分野での観察、収集研究。
4か月にわたり、西日本各地を探検旅行、
日本の風習の理解に努めるとともに、紀行文や収集品を残した。

明治8年、横浜で開業。
翌9年、愛知県病院での指導監督と付設学校で教育のために招かれる。
同年5月に着任。
ポストは顧問格で、月給は300円。愛知県知事より高かった。
4年間務め、基盤づくりに貢献。

明治9年、県知事(県令)安場の下に、愛知県がドイツ医学を採用し、
ローレツが顧問格で就任。
愛知県が洋式病院、医学校の新築に着手した年。
ローレツが導入した、もう一つのドイツ医学ともいうべき新ウィーン学派
近代日本医学の一時期を画するもの。

当時、日本的な塾や藩校的教育が色濃く残り、
ほとんどの医学校において、原書の素読、便覧書、外国人教師の
知識の断片を得て、満足している状況。

西洋医学を導入しようにも、日本では近代教育の体系全てが
未確立だったため、ローレツだけでなく他の外国人教師にとっても
医学教育は困難極まる大事業。

明治9年、愛知県病院月給10円の3等医として、
後藤新平はローレツの下で、西洋近代医学に触れた。
新ウィーン学派の特徴とは、自然科学の成果とその実験的手法を
医学に直結させた実証的研究と、近代の名にふさわしい
科学的姿勢とに象徴、新平は着実に自分のものにした。

ローレツは、当時の医学教育と医学生の質に少なからず失望したが、
新平との出会いは大きな喜びだったよう。
後に、新平はドイツ留学をするが、ローレツに刺激されたことが大きい。

ローレツは、医学校を実質的に教頭として主宰し、
新ウィーン学派の衛生行政思想に基づき愛知県の行政を指導。
住民周囲の不健康な環境を、行政によって改善すべきことを説き、
新平を衛生行政の専門家に成長させるべく指導。

新平は、安場保和が親身になって援助、愛知県病院に就職。
ローレツと深く知りあったことで、学問を究めることができた。
新平が、近親者(従兄妹)と結婚すると聞かされ、
ローレツがそれは不道徳と言われた。
人が人を知る。そのことによって成長する。
新平はどこを目指したか?

http://www.iwanichi.co.jp/feature/gotou/item_12467.html

ガリレオと太陽電池のめぐりあい

(日経 2009-06-12)

今年は、イタリアの科学者ガリレオ・ガリレイが世界で初めて
望遠鏡で宇宙を見上げてから400年目、
国際天文学連合は、「世界天文年」と名づけた。

美しい星空を眺めると、気持ちが落ち着いたり、
宇宙人がいるのではないかと夢が膨らんだりする。
「地球環境が大変だという時に、宇宙ばかり眺めていられる
天文学者はいいよね」などと、うらやむ人も。

それは大きな誤解だ。
CO2が減らない排出量取引に熱をあげる人たちに比べれば、
天文学者は真剣に地球環境について考えている。

3月22日、標高5640メートルの南米チリ・アタカマ砂漠高地の
チャナントール山山頂で、東京大学が建設した赤外線望遠鏡が、
初めてとなる星の光「ファーストライト」をとらえた。
望遠鏡の設置場所として世界で最も高く、
宇宙に最も近い場所での宇宙観測が始まった。

このプロジェクト「東京大学アタカマ天文台(TAO)計画」は、
東大の吉井譲教授が中心、1997年から10年以上かけて準備。
取り組むのは、宇宙観測だけではない。
地球環境の改善に貢献するため、TAOの名称に「太陽光利用」(Solar)
を加えた「SolarTAOプロジェクト」を今年始めた。

これまでの大型天体望遠鏡は、すべて石油を燃料とした
ディーゼル発電を電源。
TAOは、世界で初めて太陽電池でつくる電気を使う。

標高2500メートルに置く太陽電池から、50キロメートル離れた
標高5640メートルの望遠鏡まで、液体窒素で冷やし電気を無駄なく流す
「高温超電導直流送電」ケーブルでつなぐ。
「初めからすべて高温超電導ケーブルにするのはハードルが高いが、
銅ケーブルでの代用部分も合わせて、13年末までに
太陽電池から望遠鏡まで送電できるようにしたい」(吉井教授)

三洋電機の桑野幸徳元社長は、20年以上前に世界の何カ所かに
太陽電池を設置し、互いを高温超電導ケーブルでつないで
電気を融通しあう「GENESIS計画」を考案。
SolarTAOプロジェクトは、その計画を実現に近づけるきっかけ。
高温超電導直流送電研究の第一人者である
中部大学の山口作太郎教授と先端技術開発ベンチャーの
ナノオプトニクス・エナジー(京都市、藤原洋社長)が協力。

SolarTAOプロジェクトで実施する環境研究は、まだある。
通常、宇宙観測で大気中のCO2は雑音になる。
SolarTAOプロジェクトでは、これを逆に利用し、CO2濃度を測定。

プロジェクトは天文学者の吉井教授と、超電導や太陽電池に詳しい
下山淳一准教授が中心になって進める。
東大で具体的な内容を相談する会合は、今年1月から既に10回以上。
関心をよせる大手のメーカー10社ほどがオブザーバーとして参加し、
ビジネスの機会を待っている。

太陽電池は、サンペドロ・デ・アタカマ市の約1キロメートル東に設置。
設置面積は数万平方メートルで、発電能力は20メガワット級。
ここでつくる電気は、市を経由して望遠鏡に送られる。
実際に発電できるのは4メガワットで、3メガワットを市に送り、
残り1メガワットを望遠鏡で使う。

太陽電池でつくる電気を、いったん電池に蓄える案もある。
「『うちの電池が一番。ぜひ使ってほしい』という
企業からの申し出がたくさんある」と、
プロジェクトへの関心の高さに下山准教授はうれしい悲鳴。

地球の周りの大気は汚れる一方。
視力が落ちたからでなく、空気が汚れているから、
だんだん星が見えなくなってきた。
地上からきれいな星空を観測したい天文学者の活動が、
地球環境を改善するプロジェクトに結びついた。

http://netplus.nikkei.co.jp/ssbiz/techno/tec090610.html

星空に学ぶ(2)ミニ衛星で広がる興味

(読売 6月10日)

宇宙への興味をかき立てる体験型の授業が始まっている。

秋田県立能代高校の一室。
黒板の前のスクリーンに映し出されたロケット打ち上げの映像を、
課題研究で物理を選択した理数科の2年生10人が、
食い入るように見つめていた。

「これを実現したのは、みんなと同じ高校生です。
設計図はなく、すべて自分たちで設計して組み立てたんだよ」
秋田大学の土岐仁教授(57)(機械工学)が説明。
驚いた表情を浮かべる生徒たち。
男子生徒の一人は、「ロケットを飛ばすのはかっこいいと思って
参加したけど、大変そうだ」

高校生たちが挑戦するのは、ミニ衛星「缶サット」。
空き缶の中に、小型無線カメラなどの観測機器を搭載したもの。
費用の大半は、独立行政法人科学技術振興機構の
「サイエンス・パートナーシップ・プロジェクト」の支援。

製作は、秋田大と共同で進められ、最終的には土岐教授らが
中心となって、8月に全国の高校生を集めて能代市内で開く
「缶サット甲子園2009」に出場。
全長約2メートルのプラスチック製小型ロケットで、
約400メートル上空に打ち上げ、パラシュートで降下する間に、
地上のターゲットを撮影する技術を競う。

授業を担当する能代高校の石崎敦史教諭(43)は、
「教科書を教える授業だけでは、宇宙の魅力がすべて伝わるわけではない。
体験を通じて宇宙に興味を持ってくれれば」と期待。

土岐教授は、2006年度から、女子高生を対象にした
「ロケットガール養成講座」を秋田大で開講。
缶サットに加え、打ち上げ用の小型ロケットも作る。
女子高生が、物理や数学を好きになったきっかけに、
宇宙が多かったという調査結果を知り、理系分野に親しむためには
宇宙を教材にするのがふさわしいと考えた。

設計図や教科書はなく、女子高生たちは自分たちで
試行錯誤しながら作業を進める。
機体作り、エンジンの配線と配管、パラシュートと缶サットを投下する
仕組み作り、缶サット内部の製作という4班に分かれ、
秋田大生にアドバイスを受ける。
缶サットのカメラの向きやパラシュートを工夫したり、ロケットと缶サットの
切り離しのタイミングが成功の鍵になる。

土岐教授は、「打ち上げに成功しても、缶サットがうまく投下できないことや、
パラシュートが開かず墜落したことも。
生徒が自分の頭で考え、工夫することで、
本当のおもしろさを分かってもらえる

これまでに参加した女子高生のうち2人が秋田大に進学し、
宇宙工学を学んでいる。

土岐教授は、「缶サット甲子園とロケットガールの相乗効果で、
さらに宇宙分野に興味を持ってもらうようにしたい」

◆サイエンス・パートナーシップ・プロジェクト

教育現場と大学などの研究機関との連携によって、
科学教育や理数科目への興味を高めることを目的に、
研究者らが実験や講演会の講師をする講座の費用を負担する事業。
大学や企業などの研究・技術開発を支援する
独立行政法人科学技術振興機構が実施。

http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/renai/20090610-OYT8T00272.htm

いずこも同じ成熟国の悩み?

(サイエンスポータル 2009年6月10日)

科学技術の問題は、科学技術にとどまらず、
日本人がどう生きていくかということ。
かつて日本の社会、欧米にも心意気というか、人生哲学があった…。

阿部博之・元東北大学総長(前・総合科学技術会議議員)
青少年の理科離れや日本人一般の科学リテラシー低下に対し、
具体的な手が打たれつつある。
しかし、小中学校の理数科の授業時間数増といった
手直しだけで済む話ではなさそう。

足利女児殺害事件のケースはどうか。
えん罪であることを、検察も認めたと受け止められ、
自白重視の現在の捜査、裁判のあり方があらためて問われている。
今回は、DNA鑑定に対する過去の判断の誤りが認められ、
えん罪が辛くも避けられた。

これまで、膨大な数の裁判で成されてきた証拠に対する判断は、
すべて司法以外の世界で通用するものばかりと言えるか。

法曹関係者の科学リテラシーは、心配なうちの一つ。
そんな声を、社会人の科学リテラシー向上活動に取り組もうとしている
あるNPO法人の代表(物理学者)から聞いた。

経済開発協力機構(OECD)の報告書「Top Of The Class」に、
いろいろ気になる指摘。
「OECD諸国では、科学で最上位の成績を収めている
高校生の約40%が、科学関係のキャリアへ進むことに興味がなく、
約45%は科学の勉強を続けたくないと思っている」

これはどういうことか?
科学でよい成績をとっている高校生たちの半分近くが、
科学を職業に生かしたいとまでは思ってなく、
OECD加盟国の多くが、教育でそうしたモチベーションを
与えることに失敗している。

OECDの公表資料には、
「動機付けに欠ける成績上位者は、テストでよい成績をとっても、
科学の授業を面白いと思わず、学校外では科学と接する機会をもたない」、
「科学の成績最上位者の約3分の2は、テレビの科学番組を見たり、
科学関係の記事を読んだりせず、
4分の3以上は科学分野のウェブサイトにアクセスしたり、
科学クラブに入ったりしていない」

若者の理科離れや社会人の科学リテラシー低下の理由は、
学校で理科が不得手でそうなったとは説明できない。
科学を一生懸命勉強しても、自分の人生設計に役立つとは思えない。
科学技術は、社会のありように決定的な役割を果たしていない。
必要だけど、一部の“専門家”に任せれば済む程度のこと。
このように考える成績優良者が少なくない、ということではないか。

科学技術、科学的精神が社会の健全化、安定化、発展に欠かせない
基盤の一つになっている。
こうした現実を理解させることは、簡単な話ではない。
「科学技術の問題というのは、実は科学技術にとどまらないで、
日本人がどう生きていくかということでもある」(阿部博之氏)というのは、
日本に限らず、成熟した国家に突きつけられている
共通の課題ということだろうか。

http://www.scienceportal.jp/news/review/0906/0906101.html

筋肉難病の改善に犬で成功 化合物で遺伝子に「ふた」

(2009年6月8日 共同通信社)

筋肉の力が徐々に失われる難病、筋ジストロフィー(筋ジス)と同症状を、
一部の遺伝子の働きを妨げる手法を使って改善することに、
国立精神・神経センターなど日米のチームが犬の実験で成功、
米神経学会誌に発表。

筋肉の種類による効果のばらつきなどを改良する必要があるが、
安全性は高く、チームは「将来、多くの患者への応用が期待できる」

筋ジスの中で最も多い「デュシェンヌ型」を再現したビーグル犬で実験。
デュシェンヌ型は、筋肉細胞の形を保つ「ジストロフィン」という
タンパク質の合成が、遺伝子変異によって途中で止まってしまうため、
筋力の低下や萎縮が起きる。

「モルフォリノ」という化合物を注射することで、
変異した遺伝子とその周辺の遺伝子が働かないように
「ふた」をする手法を開発。
機能するジストロフィンを合成できるようにした。

生後5カ月の筋ジス犬に週1回、計5回注射したところ、
注射する前より早く走れるようになった。
注射しなかった犬は、同じ期間に症状が進み、走るのが遅くなった。

足の筋肉細胞の中で、ジストロフィンが合成されることも確認、
心臓ではジストロフィンはほとんど合成されず、
筋肉の種類によっては効果が不十分なことも分かった。

▽デュシェンヌ型筋ジストロフィー

筋肉細胞の構造を支えるタンパク質ジストロフィンが、
遺伝子の変異によって作られず、筋肉が徐々に萎縮する遺伝性疾患。
男児の約3500人に1人が発症。
年齢とともに筋力低下などの症状が進行し、患者の多くは30歳までに
呼吸不全や心不全で死亡。
根本的な治療法は見つかっていない。

http://www.m3.com/news/GENERAL/2009/6/8/101463/

2009年6月18日木曜日

中尊寺落慶供養願文をTシャツに 有志が作製

(岩手日報 6月7日)

奥州藤原氏、初代清衡の平和思想を広く知ってもらおうと、
平泉町と一関市の有志が、「中尊寺落慶供養願文」を、
英訳しTシャツにした。
平泉町で開催されるイベントで販売開始。

収益の一部で、平泉文化を紹介する英語の本出版も目指す。
平泉を訪れる外国人旅行者が、清衡の平和思想に触れる
きっかけにもなりそう。

Tシャツは、紺と白の2色。
金色の文字で、すべての人や生き物が浄土に導かれるよう、
願う言葉が英語で書かれている。

紺色の紙に、金色の文字で書かれた中尊寺所蔵の
「紺紙金字一切経」からイメージ。
TシャツのサイズはSSからXLまで5種類で、1枚1500円。

通訳ガイドの菊池敦子さん(一関市大東町)が中心となり、
1年ほど前から準備を進め、中尊寺の協力を得て作製。

英訳は、平泉町在住の英国人千葉ローズマリーさんが担当。
一関市大東町の障害者福祉サービス事業所「室蓬館」で印刷。
1千枚作製。今後は、3千枚の販売を目指す。
菊池さんは、「平泉文化の良さを広く知ってほしい」と期待。

平泉町で開催されるウオーキングのイベント
「IBC平泉ウォーク」の発着点・旧観自在王院庭園で販売開始。
同町平泉のこざか豆腐店やインターネットでも販売。

問い合わせは、「中尊寺落慶供養願文Tシャツプロジェクト」事務局
(菊池敦子さん、ファクス兼用0191・75・3265)。

http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20090607_5

特集:後藤新平の真髄07 安場と新平 再び

(岩手日日 2009年4月2日~)

安場保和から後藤新平が、月々3円をもらって苦労していた。
明治5年のことだが、今の通貨ならどの程度か?
当時の3円は、現在は2780倍に。ざっと8300円。
新平、原敬らは1か月8300円で暮らしていた。ことに。
困苦欠乏にもめげず、ひたすら未来の夢を実現しようと
懸命に努力していたことが分かるだろう。
当時、巡査の月給は4円。
推察すると、少なくない額であり、援助を続けた安場保和は
どんな人物であったろうか。

◆安場保和という人物

『日本の歴代知事』という本。
愛知県の項を引くと、安場保和についてこう書かれている。

安場は、天保6(1835)年4月17日、旧熊本藩士の子として生まれる。
幼名を一平と称した。維新の功臣の一人。
明治2(1869)年から胆沢県(岩手)、酒田県(山形)大参事
(現在なら副知事相当)を歴任、明治4年に大蔵大丞、
租税権頭と兼ねて従五位に任ぜられる。
明治5年、岩倉具視らと欧米歴訪の旅に出るが、中途で日本へ帰る。

明治5~8年まで福島県令を務める。
明治8年12月3日、愛知県に転任。在位期間は、わずか18日間。
歴代知事の中で、名前だけ連ねただけ。
しかし、胆略のある知事だったとの評判で、地租改正事業には
農民相手に大騒擾を惹起して頭を痛めた。
農業に尽くした功績も見逃せない。
愛知県に尽くした水利治績は、今日の明治用水の礎として特筆に値する。

福島県令時代はどうであったろうか?
明治5(1872)年6月、3代目福島県令として就任したのが、
「開明県令」といわれた安場。
横井小楠の門に学び、戊辰戦争には東海道鎮撫総督参謀の一人として参加。
東北地方へ第一歩を印したのは、胆沢県(岩手)権大参事となった時。

福島県権令に着任して、再び東北地方の開明に情熱を傾けることに。
安場の情熱は、後藤新平にも向けられた。
福島県時代の安場は、教育に最も力を入れた。
自ら先頭に立って小学校の設置を図るとともに、
未就学児童の実態調査、就学督励に尽力。
教員養成を目的に、講習所(福島師範学校‐福島県立大学)を開設、
福島医学校の前身・須賀川医学校を設け、教育県福島の基礎づくりに。

人材の発見と登用に、大きな力を傾けた。
安場の福島時代、小学校に併設した洋学校に後藤新平を呼び寄せ、
須賀川医学校に学ばせた。
安場が胆沢県権大参事として水沢に来なかったら、
後藤新平の前途はどうなっていたのであろうか?

人は人を知る。いや、知られる。
かくて、才能発揮の機会が到来する。
新平の生涯をみると、出会いの妙を思う。

◆新平は一流の医師へ

新平は、明治6年、阿川の官舎に入って、福島小学第一洋学校に入学。
明治7年、中途で帰郷した。
父十右衛門はこれを戒め、再び引き返す。
須賀川医学校に入学し、生徒寮に入る。
阿川の留守中に預かり金を費消し、始末に困って、
父十右衛門に手紙を送り、救済の懇願をする。

明治8年、福島県病院六等医生となり、医学校生徒取締り(内舎副会長)
として月給3円を支給。
明治9年、生徒寮内外舎長となり、月給8円を支給。
自ら調剤の眼薬「済衆水」を父に発売。
8月、名古屋に着く。
安場が愛知県知事になったのを契機に、阿川光裕が愛知県に転任、
阿川邸に落ち着く。
愛知県病院三等医を拝命し、医局診療専務となる。月給10円。

ここまでの新平にとって、安場は大きな力を持つ支援者。
新平は、それに応えるべく、外科医技量を発揮。

明治9年、新平は阿川家を出て、教授司馬凌海の家塾から
愛知県病院に通い、教師ローレツの指導を受け、
一層医師としての腕を磨く。
次第に一流の医師としての評価を得る。

明治10年、公立医学所二等授業生となり、月給12円を支給。
新平が出世街道を歩んでいた時期、西南戦争が起き、
維新の功労者西郷隆盛が自刃。

(参考:後藤新平記念館発行の資料)

http://www.iwanichi.co.jp/feature/gotou/item_12308.html

3G携帯2兆元市場に食い込め

(日経 2009-06-11)

中国で、第3世代携帯電話(3G)の商用サービスが
本格的に始まった。
6億人以上が利用する世界最大の中国市場。
3G投資は、携帯向けソフト開発なども含めると2兆元(約29兆円)規模、
中国政府は景気刺激策の柱に位置づけ。
保護主義的な色彩も色濃いが、世界中の通信機器大手が
最大の商機に食らいつくなか、日本勢の存在感は薄い。

「3Gで生活を楽しくしよう」
中国携帯最大手、中国移動通信集団(チャイナモバイル)
北京市内の販売店では、女性販売員らが大声で呼びかける。
「ネットカフェに行かなくても、人気歌手の動画も簡単にダウンロードできる」
販売員が3G特有のサービスを紹介すると、顧客の女性は感心した様子。
「3Gを持っている人がまだ少なくて目立てる」と購入。

動画配信サービスは中国移動によると、ノキア・シーメンスの技術。
同社は、フィンランドのノキアと独シーメンスの携帯電話サービス会社、
「安定したサービスを評価して導入した」(中国移動)。

中国の3Gは、もともと2005年に始まる予定。
中国政府が中国移動に、中国独自の通信規格「TD—SCDMA」の
採用を義務づけ、開発が難航。09年までずれこんだ経緯。

現在主流の第2世代携帯電話(2G)では、
中国メーカーが育ってなかったため、通信設備では
ノキア・シーメンスやモトローラなど海外勢が席巻。
端末でもノキア、サムスン電子、モトローラが3強を構成。

「3Gでは、同じ過ちを繰り返さない。
中国企業に、内需拡大の恩恵を与えるように政策配慮している
(工業情報化省幹部)。
3Gでは、国内通信設備大手の中興通訊や華為技術、
大唐電信科技に通信設備を発注。
3G端末でも現状は国産メカーの比率が高い。

「欧米の先進技術を使って、消費者の購買意欲を刺激することも大切」
(民間調査会社幹部)
中国移動は、3Gサービスをノキア・シーメンスから導入、
携帯向け半導体大手STエリクソンと5月に提携、
3G向け低価格端末の開発で合意。

STエリクソンは、多くの外資系端末メーカーに半導体を提供、
中国でも海外メーカーのシェアが広がる可能性。
ノキアの中国法人幹部は、「世界の携帯電話市場が停滞するなか、
中国市場で業績を伸ばしていくしかない」

一方、日本勢で存在感のあるのはシャープくらい。
大都市の女性層などに売り込んでいるが、シェアはわずか。
「欧米韓大手と比べ、中国市場で投じている広告宣伝費はケタ違いに少ない。
将来は劣勢になる恐れもある」(中国の広告宣伝会社関係者)

日中政府間では、麻生太郎首相や鳩山邦夫総務相が訪中。
中国政府側と、次世代携帯電話の技術協力に関して合意。
日本のコンテンツやアプリケーション(応用)ソフトを
中国への導入などを目指す。

中国では、動画などの多くが無料で楽しめ、著作権への考え方も異なり、
日中政府間の合意の進展は簡単ではないが、
中国側にも、「日本のように通話以外の課金ビジネスをうまく育てたい」
(中国移動幹部)との思いは強い。
日本企業が、中国企業とのビジネスにどれだけ深く入れるか?
これから正念場を迎える。

http://netplus.nikkei.co.jp/ssbiz/ittrend/itt090609.html

星空に学ぶ(1)好奇心育む「宇宙の学校」

(読売 6月9日)

宇宙を切り口に、子どもの好奇心や想像力をふくらます試み。

体育館の天井に向けて突き出された棒の先の箱から、
シンジュという木の種に似せた折り紙がひらひらと舞い降りてくる。
「うわぁーっ」と、歓声を上げて手を伸ばす子どもたちと、見守る親たち。
講師の遠藤純夫さん(69)が、「よく見てくださいね。
種は、こうやって地上にばらまかれるんですよ」

国分寺市で開かれた「宇宙の学校」。
主催したのは、NPO法人「KU―MA(子ども・宇宙・未来の会)」
宇宙航空研究開発機構などで、宇宙の開発や研究に携わってきた
科学者や、「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」などの作品で著名な
漫画家の松本零士さん(71)ら、有識者により昨年6月に設立。
遠藤さんも理事を務める。

KU―MAが各地で開く宇宙の学校の対象は、
幼稚園児から小学校低学年までの子どもとその保護者。
プログラムは、家庭学習と、地域の公民館や科学館を会場に
大がかりな実験・工作を行うスクーリング数回で構成。

KU―MA会長で、元宇宙機構執行役の的川泰宣さん(67)が、
「宇宙は、好奇心や興味を引き出すための入り口に過ぎない」、
家庭学習や実験、工作の内容は様々。
家庭学習では、「水に浮くもの沈むものを見つけよう」、
「海水から食塩を取り出そう」、「つる植物の観察」など、
宇宙機構が作成した28種類のテキストをもとに学ぶ。

実験や工作では、張り合わせたゴミ袋の中に温かい空気を入れて
浮かせる熱気球、ビニール袋をふくらませて飛ばすロケットなど
宇宙を連想させる実験から、地球上の動植物や自然現象などを、
幅広く取り上げる。

シンジュやラワンの種の模型飛ばしのほか、
風を知るためのかざぐるまづくり、
海の生物を知るための星砂探しが行われた。

親子で取り組むことで、家庭の中で科学への関心をどんどん広げて
もらうのも大きな狙い。
子どもだけでは作れない、解けない課題を準備し、
親子で解決に取り組まざるを得ない状況にあえて追い込んでいる。

参加した国分寺市の主婦、永井英子さん(37)は、
「学校ではあまり教わらないことや、保護者だけでは教えられない
専門的なこともできるので参加。
娘にはいろんなことに興味を持ってほしい」

同市立第五小学校2年生の福田周真くん(8)と参加した
父親の稔さん(38)は、「家でも話が広がりそう。
かざぐるまくらいなら、子どもよりうまく作れるので、
親としての威厳も保てます」

的川さんは、「この学校は、家庭と宇宙、家庭と科学を結ぶのが目的。
家でも、親子で日常的に宇宙や科学を話題にしてくれれば、
探求心が育つのでは」と期待。

家庭での親子の会話が、宇宙への大きな一歩になる日が来るかも。

◆宇宙航空研究開発機構

宇宙・航空の基礎研究から技術開発・利用までを担う独立行政法人。
大型ロケット「H2A」の打ち上げ時の安全管理、
国際宇宙ステーションの開発・運用のほか、宇宙飛行士の養成。
宇宙を題材にした教育活動も行っている。

◆世界天文年の今年、日本では皆既日食…

今年は「世界天文年」。
イタリアの科学者・ガリレオが、望遠鏡で天体を観察して400年、
国連などが節目の年として指定。
この記念すべき年に、日本では珍しい天文現象が出現。
7月22日、トカラ列島や種子島などで「皆既日食」を観測でき、
天文ファンの期待を集めている。

宇宙では今、宇宙飛行士の若田光一さん(45)が、
日本人で初めてとなる長期滞在生活に挑戦中。
国際宇宙ステーションでの滞在期間は、間もなく3か月を迎える。
今月中には地球に戻る予定。

宇宙や天文関連での大きな出来事が続く中、
国内外の宇宙天文施設では、星の観測会や宇宙関連の
展示会の開催や、民間団体や教育機関による宇宙天文教育の活動など、
関連イベントも広がっている。

国立天文台で、宇宙教育を担当する元高校教師の
縣秀彦准教授(48)は、「宇宙は自然のすべてを包含する。
理科の勉強だけではなく、芸術の題材にもなり、非常に間口が広い。
だから幅広い人の関心を呼び、興味を引き出すことができる」

肝心の教育現場では、深刻な問題。
小中学校や高校の授業では、宇宙や天文を扱う授業が減り、
これに歩調を合わせるように専門教員も少なくなっている。

http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/renai/20090609-OYT8T00323.htm

国立大学博士課程の定員縮小要請

(サイエンスポータル 2009年6月10日)

文部科学省は、国立大学法人に大学院博士課程の入学定員を
来年度から始まる次期中期目標・中期計画で見直すよう求めた。

通知は、第1期中期目標期間(2004-09年度)で、
各法人が必ずしも国民の期待にこたえられていない点があると指摘、
各法人の規模や内容に応じて組織のあり方などについて見直し、
目指す方向と個性化が明確となる次の中期目標・中期計画を
策定するよう求めている。

人口減少や世界的な状況の変化への対応の必要性も指摘。
大学院博士課程について、定員割れしているかどうかといった現状や、
社会が博士課程修了者をどの程度必要としているかなどを
総合的に勘案して見直す必要を指摘、
就職できない修了者が多いところや、定員の大幅割れを来している
博士課程について定員の縮小を求めている。

法科大学院や教員養成系学部についても同様に、
実績に基づく組織編成が必要。
附置研究所について、研究の質の向上に向けて
研究体制などの見直しを求めた。

文部科学省が組織の見直しを迫る背景には、
国立大学の法人化により、組織編成などの運営面や財政面で
大学独自の改革がやりやすくなったことがある。

博士課程の拡充は、欧米に対して人口あたりの博士号取得者が
少ない現実を踏まえ、1996年の第1期科学技術基本計画に
「ポスドク1万人計画」として盛り込まれた経緯。

この目標は、計画より1年早く99年に達成、
博士課程修了者数に見合う就職先が用意されていないため、
安定したポストにつけない若手研究者が増え、
ポスドク問題としてさまざまな議論が起きている。

http://www.scienceportal.jp/news/daily/0906/0906102.html

2009年6月17日水曜日

2型糖尿病 運動不足と食べ過ぎ、子どもの発症が増加

(2009年6月12日 毎日新聞社)

2型糖尿病を発症する子どもたちが増加。
予防法がない1型と違って、2型は運動不足と食べ過ぎが原因。
肥満によって自信を失い、不登校になるケースも。

もみのき病院(高知市塚ノ原)の内田泰史理事長(66)と
岡田泰助・小児科部長(47)=日本糖尿病協会小児対策委員会副委員長=
に、全国に先駆けて取り組んでいるサマーキャンプや
治療法について聞いた。

----糖尿病はどんな病気か?

岡田部長 インスリンの働きが悪くなり、血中ブドウ糖が身体の細胞の中に
取り込まれなくなり、血糖値が上昇(高血糖)してくる病気。
高血糖状態が持続すると、全身の血管に障害が生じ、合併症を起こす。
代表的なものは、目の奥の血管が損傷される網膜症。
失明して、日常生活に支障。
脳卒中や心筋梗塞のリスクも高くなる。

----1型と2型糖尿病の違いは?2型が子どもに増えているのはなぜ?

部長 1型は、何らかの原因でインスリンの製造工場が壊され、
インスリン分泌がゼロになる。
遺伝的要素は少なく原因不明だが、
注射でインスリンを補充すれば100%治療できる。
2型は、食べ過ぎと運動不足からインスリンの作用が悪くなる。
遺伝(体質)の影響が大きい。

治療の基本は、食事と運動療法。
子どもに増えているのは、肥満傾向の子どもの増加に伴い、
インスリンを作る膵ベータ細胞が早期からダメージを受け、
小児期から発症している。
現代社会において、身体活動量が減っていることが最も大きな原因。
食事も、脂肪の占める割合が増えたことも一因。
全く無症状のため、治療を中断してしまう方が多く、
成人後に重症合併症を起こしやすい。
体質的に、日本人は発症しやすい。

----原因や増加の背景をどう分析するか?

部長 社会が便利になるにつれ、身体を動かす必要がない。
通学に車を使ったり、お手伝いもしなくなったり、
夏休みの過ごし方が変わるなど、子どもの身体活動量が激減。

幼少期からの家族の問題が解決できない、現代社会の弊害。
核家族化に伴い、「地域による子育て」がされない。
食の欧米化に伴い、乳製品や高脂肪食、ファストフードなどの
摂取が増え、忙しいお母さんのために簡単にできる料理も普及。
コンビニの軒数や車の台数などと、2型糖尿病患者の増加は比例。

----治療法や生活習慣の改善について。

部長 家族をはじめ、本人と良い信頼関係を築き、
徐々に生活の中へ介入し、「これならやれる」と思えることから始める。
外来診療で、いかに詳しく生活について話してもらえるかが、
主治医の腕の見せどころ。
患者さんとその家族の生活歴を聞き、
登校手段、買い物の仕方、ゲームを買うか買わないか、
テレビの見せ方、家族の生活などを聞くと、ほぼ確実に肥満の原因が存在。
治療方法はすぐに見つかるが、
実行してもらうためにどうお話しすればよいのかがポイント。
いかにモチベーションを持ってもらうか、ということ。

----2型も対象にしたサマーキャンプの目的や内容は?

部長 1型のキャンプは、日本では1963年から始まり、
2型は肥満が要因と言うことで、「自業自得だ」との考えから、
支援の動きがなく、キャンプを開くことが出来なかった。
肥満が原因でいじめられ、運動能力も低いために運動嫌いになり、
不登校や引きこもり状態になる子が多い。
「放っておいていいのか」と、全国に先駆けて、

13年前に1型のキャンプに肥満の子を連れて行ったのが始まり。
以来、毎年参加してもらっている。
栄養士や学生のボランティアの協力で、4泊5日の日程で
カロリー計算の仕方を学んだり、サーキットトレーニングなどの
運動をこなしたりする。

昨年は広島・江田島で行い、4歳-高3の約40人が参加。
「ご飯を1杯食べたら、カロリーを消費するには1時間の散歩が必要」
などと毎食ごとに学ぶ。
運動では競争させ、褒美を用意すると、驚くほど積極的に取り組む。
運動が嫌いなのではなく、自信がなくてやる機会がなかっただけ。
昨年は、減量目標を全員に課し、最大約4キロの減量に成功。

----食事制限は大人でもつらい。どのような工夫が大切か?

部長 一番つらいのは、家の中にたくさん食べものがある状態で
我慢させられること。
家の中に食べ物を持ち込むことを控えるように、
家族全員の協力が必要。
親や祖父母が持ち込まなければ、かなりの方がやせていく。
褒めるのが下手な親と、褒められたことがない子ども、
という組み合わせが多い。
親には褒め方を教える。

----予防策や早期発見について、助言。

部長 母子手帳や幼稚園・保育園・学校での検診から、
成長曲線を作成すれば、早期発見が可能。
10年以上前から県内各地の学校を訪問し、養護教諭の先生に
このことをお願いしている。
予防に関して、3歳から小学入学までの体重増加速度を参考に、
早期に介入すべき。
小児科医にも、啓もう活動。
家族の中に、肥満や2型糖尿病の方が存在している場合はハイリスク。
早期発見早期介入により、発症予防することが大切。

----健康な身体を作る食事は?

内田理事長 よくかんで食べれば、脳の血流が良くなる。
消化吸収が良くなり、発育も良くなる。
かむことによって、満腹中枢が刺激され、食べ過ぎを防げる。
20回かむと、食べる量が半分で済む。

家族だんらんで楽しく食べることも大切。
今は、学校から帰ると一人で食べる子どもが多く、
食べる環境が整っていない。
一人で食べると、早くたくさん食べがちに。
家族と一緒に食べることにより、親子の会話が弾み、
コミュニケーションの手段にもなる。
家族との会話を大切にすると、健康になる。

笑うことによって、免疫力が増す。
楽しく食事をして生き生き暮らせば、糖尿病の防止に。
……………………………………………………………………
◆09年度(第20回)県小児糖尿病サマーキャンプ
(主催・県小児糖尿病つぼみ会)

【日程】8月5日(水)-9日(日)4泊5日
【場所】瀬戸アグリトピア(愛媛県伊方町大久)
【対象】1型糖尿病患者(高校生以下)
【参加費】会員1万円、非会員1万600円
【申し込み先】〒780-0952 高知市塚ノ原6の1
もみのき病院小児科 岡田泰助
(088・840・0222、FAX088・840・1001)
【締め切り】今月30日(火)

http://www.m3.com/news/GENERAL/2009/6/12/101956/

挑戦のとき/10 国立がんセンター研究所研究員・大木理恵子さん

(毎日 5月19日)

がんとは、正常な細胞が変化し異常な増殖を繰り返す状態で、
その過程が解明されれば、がん化を防ぐ戦略も見えてくる。

大木さんは、どのように細胞が異常になり、がん化するかを
分子レベルで追究。
6年がかりで、がんに関連する3つの遺伝子のp53、Akt、PHLDA3
調べ、がん化のメカニズムを解明。
成果は、米科学誌セルで発表。

p53は、細胞のがん化を防ぐがん抑制遺伝子で、
Aktは、逆に細胞をがん化させるがん遺伝子。
p53が司令塔になって別の遺伝子に命令し、その働きでがん遺伝子を
抑え細胞のがん化を防いでいることは分かっていた。
p53の指示を受けて働く遺伝子の正体は謎。

大木さんらは、がん細胞が死なずに異常に増殖する点に注目。
細胞死を引き起こす遺伝子PHLDA3が、
p53の指示を受け働く遺伝子だと突き止めた。

治療法の実現には、遺伝子を特定するだけでは不十分。
「具体的に、どのようにがん遺伝子を抑えつけているのかが分かれば、
治療法の糸口も分かってくる。
さらにメカニズム解明を続けたい」

父は白血病、母は大腸菌の研究者。
大木さん自身は、大学に入学した当初から
研究者を志していたわけではない。
進路として、芸術やマスコミへの興味が強かったが、
それを覆したのは大学4年の時に偶然、読んだ分子生物学の教科書。

「細胞内の現象は一つの分子から、
すべて論理的に説明できることを知った」
「生物学は暗記科目」と思っていただけに、衝撃的な出合い。
熟慮して、研究者になることを決意。
「研究者は、研究が本当に好きでないとやれない職業。
よく考えて決めるように」と、話していた母は喜んだ。

大学院進学後は週2回、研究室に泊まり込んで実験に熱中し、
今回の成果につながる細胞死や細胞増殖に関係する
遺伝子の研究を重ねた。

後輩の大学院生らと共同研究するようになって、気づいたこと。
任期付きの研究職が増えて、優秀な学生が将来を不安視し、
進路で研究者を選択しない傾向。
女性研究者には、結婚や子育てとの両立に悩む声も多い。
「体力、知力に勝る若い時代こそ、安心して自由に研究できる
環境が必要なのに」と、
次世代を担う研究者への支援強化が大切と訴える。

「一つの遺伝子の機能解明が、がん克服に結びつく。
そんな分子生物学的な研究の重要性と面白さを、
若い研究者と共有して、研究を発展させたい」と、没頭する日々が続く。
==============
◇おおき・りえこ

埼玉県川越市出身。97年、東京大大学院理学系研究科博士課程修了。
02年6月から現職。

http://mainichi.jp/select/science/rikei/news/20090519ddm016040103000c.html

白髪の原因はDNA損傷 毛根の色素幹細胞が枯渇

(2009年6月12日 共同通信社)

老化やストレスで白髪になるのは、色素を作る細胞の元になる
毛根部の「色素幹細胞」が、DNAの損傷を修復できずに
枯渇してしまうのが原因であることを、東京医科歯科大や金沢大などの
研究チームがマウスの実験で突き止め、米医学誌セルに発表。

白髪になる詳しい仕組みの解明は初めてで、
予防法の開発につながる可能性。
さまざまな幹細胞を利用する再生医療やアンチエイジング(抗加齢)
への応用が期待。

これまでの研究で、毛根の色素幹細胞が枯渇すると、
やがて色素を作る細胞も無くなって白髪になることを見つけていたが、
なぜ枯渇するのかは不明。

傷ついたDNAを修復する遺伝子を持たないマウスに
放射線を当てて実験。
通常のマウスでは全く変化が起きないほどの、
ごくわずかな放射線で体毛が白くなった。
毛根部を調べると、色素幹細胞が色素を作る細胞に
分化していることが分かった。

通常、色素幹細胞は自己を複製しながら、色素を作る細胞も生み出す。
DNAの損傷を修復できないと、自己複製機能が失われ、
幹細胞がすべて分化してしまうために枯渇する。

西村栄美・東京医科歯科大教授は、
「DNAの損傷した幹細胞が、死なずに分化するとは驚きだ。
幹細胞を維持する仕組みを調べたい」

http://www.m3.com/news/GENERAL/2009/6/12/101868/

子育て導く真心説法 紫波町・広中さんが講演

(岩手日報 6月8日)

不登校や虐待を受けた子どもたちの社会復帰に尽くす、
愛知県岡崎市の浄土宗・西居院住職、広中邦充さん(58)
講演会は、紫波町桜町の岩手中央農協本店で開かれた。
同町日詰の来迎寺檀家会の主催。約150人が来場。

広中さんは1996年から、心の傷を抱えた子どもたちを
無償で預かる活動を始め、現在も14人と生活。
一流企業に勤める父親から、ドメスティックバイオレンス(DV)被害を
受けた母子が駆け込んできた際、離婚相談に乗ったり、
9年間も摂食障害に苦しんでいる20代の女性を受け入れ、
カウンセリングしたエピソードを紹介。

苦しんでいる女性や子どもを、誰が救うのか。
それこそ宗教者の役割。
子どもの叫びに親が気付き、ぬくもりのある家庭を築いてほしい」

最後に、「この世に人間として生まれたことは、
天上から垂らした糸が海の底に沈んだ針の穴に通るくらいまれなこと」とし、
喜びの心を持ち、人の役に立ち、人の幸せを願うことの大切さを呼び掛けた。

http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20090608_11

特集:後藤新平の真髄06 医師・新平の第一歩

(岩手日日 2009年4月2日~)

明治5(1872)年、奥州街道の宿駅として、商業の町として
藩制時代の白河藩を支えたのが、須賀川町。
明治維新後、「白河以北一山百文」と、東北地方は薩長体制から蔑視。
後藤新平は、蔑視観の境界に身を置いた。
原敬は、その差別体制を屈服させようと俳号を「一山」とした。

原敬、後藤新平の身の置きどころに気脈が通ずるものがある。
二人は、明治4年に古里を後にし東京に出たが、
同じ年に新渡戸稲造も東京を目指した。
明治四年の「三人組」ということができよう。

明治4年7月、白河仮病院が開院、9月に西洋医学による
医師の養成を目的に、医術講義所も開設。
医術をめざす志のある人々が福島の内外から集まった。
戊辰戦争の激戦地だった白河での経営は苦しかった。

須賀川町は、強力な運動で病院を誘致し、福島県病院と称される。
一時私立となったが、県立須賀川病院となり、明治6(1873)年、
病院新築落成と同時に、福島県公立須賀川病院と改称。
医学所と寄宿舎も併せて新築。

明治7年2月、医学所に初めて7人の入学者を迎えた。
7人の初入学者のうちに、新平もいた。
彼は、県令安場保和の知遇を得て希望に燃えていた。

新平の医学所での学生生活は2年間。
明治7年3月、渋谷正信教授指導の下、
最初の死体解剖が医学所の医学生によって行われた。

新平は、明治8年7月4日、寄宿舎の舎長に任命。
明治9年3月、学生とは別に医師として再教育をめざす人達は、
寄宿舎生の外舎長と称していたが、兼任を命ぜられた。給は8円。
新平は、須賀川病院医学所の内舎、外舎の寄宿舎生全員の
取り締まりをすることに。

学校当局の思惑とは別に、20歳前後の若者が舎長づらをして
取り締まり責任者になったところで、家に帰れば妻子がある外舎生らは、
おいそれと言うことを聞くとは思われない。
年齢は30~40代。飲酒、遊興の悪習もある。

新平は、一同を集めて訓示をした。
「はからずも舎長を拝命したが、諸君の方が年長、思慮も分別もある。
会則とはいえ、監督することになったことは心苦しい。
が、ここに2冊の帳簿を持参した。
何もいわれなくとも、会則を守るものは、この方に姓名を書いてもらいたい。
意思が弱くして、会則を守れないという向きは、
甘んじて自分(新平)の別の一冊に署名してもらいたい」

新平は周囲を見回した。
外舎生の面々は、規則を守る自信がないと言って
帳面に署名するわけにゆかず、前者(規則を守る)に記入。
これで秩序が保たれた。
年長者も、新平の気魄に飲み込まれた。

◆解剖で外科医の力量発揮

平成6年秋。
ジョンズ・ホプキンス大学のイタリア・ボローニアセンターを視察。
ボローニア大学の計らいで、中世の解剖室を見学。
中央の台に死体が横たわり、死体が置かれた場所を
2階の映写室のような窓から監視する状景が見渡される歴史資料室。
中世のカトリック教徒が、いかに死体解剖に目を光らせていたか。

新平は、須賀川病院医学所で行った最初の死体解剖で、
外科医として力量を発揮、これなら学生らのリーダーになれると評価
舎生の取り締まり責任者に任命されたのは、
若い新平が統率力と胆識を見込まれる場面でも。

明治8(1875)年1月、須賀川医学所は須賀川医学講習所と改められ、
医学講習所は速成法を目的に、生徒入舎規則を改正。
舎生を内外に分け、内生は3年生ならびに志願者、学年を2年から3カ年。
費用は自弁である。
外生は開業医、6カ月を一期として修業。
1、2名に限って、漸次入舎させて学費を給した。

◆安場を慕い愛知県病院へ

新平は、福島県令安場保和が福島を去る日が近いことを察知していたか、
2年の学業の終りが近づいたころ、身の処し方を考えていた。
校長が彼を呼び、身の振り方を尋ねた。
新平は、「医学の門に入ってから2年しかたちません。まだ勉強したい。
それには開業するよりも、どこかの病院に勤めた方がいい」
校長は、「出羽の鶴岡県病院から、優秀な医官を推挙してほしいと…
月給は25円出すという」

医学校在学期には、新平の生活費は毎月3円。
鶴岡県病院からの招きに応ずれば、新平は貧乏生活から抜け出せる。
医者は引っ張りだこだった。
昔ながらの漢方医ならどこにもいる。
西洋医学を修めた新しい医者が不足。
須賀川医学校は、変則の速成課程だが、
優秀な成績で卒業することは誇るべき経歴。

鶴岡県病院から、新平が40円欲しいと要求したのに対し、
35円で我慢してとの返事があり、就職が決まった。
そこへ、東京の阿川光裕から新設の愛知県病院へ
月給10円で来ないかと勧誘。

安場は、新しく愛知県知事となった。
安場と阿川は、新平を手元に呼び、手腕を発揮させようというのだ。

35円と10円、新平は比較してみた。
熟慮して、10円を選択した。
「医は仁術」と言われている。
現代は、算術になり下がった医者が多いというが、
安場保和、阿川光裕の恩義は海より深しと考え、愛知県病院を選んだ。
医師・新平の第一歩である。

http://www.iwanichi.co.jp/feature/gotou/item_12155.html

2009年6月16日火曜日

三沢光晴さん急死:ノアは続く!小橋が潮崎が三沢魂継承誓った

(毎日 6月15日)

主役なきリングに最後の三沢コールが響いた。
13日、試合中の事故で亡くなった三沢光晴さん(享年46)が
社長を務めていたプロレスリング・ノアは14日、
博多大会を予定どおり開催。

会場の博多スターレーンは、2600人の観衆で超満員、
三沢さんを追悼する試合前の10カウントでは、選手もファンも涙。
選手は、三沢さんの遺志を継ぐように激しい試合を繰り広げた。
広島県警は、頭部を強打した三沢さんの死因を頸椎離断と発表。
超満員の館内の誰もが泣いていた。
博多大会の試合前に行われた10カウントのセレモニー。
リング上には、三沢さんの遺影を手にしたノアの百田光雄副社長、
小橋、田上、小川、リング下には出場全選手が並んだ。
カウントの間、歯を食いしばって涙を流す選手たち。
場内からはすすり泣きの声が漏れた。

三沢さんの入場曲「スパルタンX」が鳴り響くと、最後の「三沢コール」。
もう一度、リングに姿を見せてくれ--。
かなわぬ願いと知りながら、ファンは涙ながらに絶叫し続けた。

三沢さんは、13日広島大会の試合中、
相手選手の岩石落とし(バックドロップ)を受けて頭部を強打。
搬送された広島市内の病院で死亡。
遺体が安置された広島市内の病院には、ノアの選手全員が集合。
小橋、秋山らが最後のお別れをした。
遺体を乗せた車が都内へ向けて出発、選手たちはすぐに博多へ。

創設時からノアを引っ張ってきた社長の急死。
この日の博多大会は中止になってもおかしくなかった。
百田副社長は、「満身創痍でもリングに上がる三沢社長の
遺志を継ぐ上でも決行すべき。
いろんなところで、いろんな人が楽しみにしている」、
22日まで予定されている今回のツアーの続行を決めた。

選手たちも、いつも以上に激しい試合を繰り広げた。
小橋はセミの6人タッグで、田上、谷口と異例の円陣を組んで気合を入れ、
気持ちのこもった126発のチョップを披露。
最後は、剛腕ラリアットからの体固めで佐野にフォール勝ち、
「(コメント)できない」と無念の思いを胸の内にしまいこんだ。
GHCヘビー級のベルトを初めて手にした潮崎は、
「三沢社長のつくったGHCベルトをなくしてはいけない。
もっと良くしていきたいし、社長に見ててもらいたい」と号泣。

百田副社長は、「(三沢さんは)肩がキツいと言っていた」、
ノア関係者は、「肩、首、腰、ひざと体はボロボロだった」と明かした。
K-1や総合格闘技が人気を集める中、プロレス人気は低迷。
テレビ中継は打ち切りが相次ぎ、観客動員でも苦戦を強いられた。
だからこそ、激しい試合を見せなければならないと、
三沢さんは社長業と掛け持ちでリングに上がり続けた。

新体制については、22日の後楽園大会後の役員会で話し合われる予定、
潮崎は、「社長のように体がボロボロになっても、
悔いが残らないようにしたい」とキッパリ。
ノアの誰もが、三沢魂を継承していく意思表示の言葉だった。

急死の三沢光晴さん、長年にわたり移植医療に協力

(6月15日 産経新聞)

広島市で13日夜、試合中に技を受けて急死したプロレスラー、
三沢光晴さん(46)は、移植医療に関心を持ち、
募金などを通じて長年活動に協力してきた。

三沢さんは平成13年以降、自ら主催するプロレス団体「ノア」の
全国の興行会場で、移植患者への募金や、ドナーカードの配布
といった活動を、ファンに対してたびたび行ってきた。

NPO法人「日本移植支援協会」によると、
移植に関心を持ったきっかけは、先輩のプロレスラー、
ジャンボ鶴田さんが平成12年、フィリピンで肝臓移植手術中に
死亡したことがきっかけ。

同法人の高橋和子理事は、「寛大で優しく、機関紙の表紙にも
気軽に登場してくれた。多くの患者に勇気を与えてくれたことに、
感謝の気持ちでいっぱい」と人柄をしのんだ。

三沢さんと親交があった巨人の原辰徳監督は、
「寡黙だが、内に秘めた闘志、統率力などが素晴らしく、
同世代の男として尊敬する人物だった」

三沢さんの遺体は東京に運ばれ、近親者だけで密葬を行う予定。
「ノア」の百田光雄副社長(60)は、
「(ファンとの)お別れの場はつくらないといけない」と
追悼イベントの開催を示唆。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090615-00000618-san-fight

誰よりも鍛え…三沢光晴さんが語った“本流”の妙技 清水満

(産経 6月15日)

何度か、NOAHのプロレスを見に行ったことがある。
いつも感心させられた。荒技をかける。
ソレに対する受け身が素晴らしい。美しい。
プロレスを“様式美”にしていた。

年間250日近い興行。
本当の殴り合いをするが、殴る方が真剣でも、
殴られる方が、“緩和”させる技を持つ。
プロレスは、技と体力と知力が究極に研ぎ澄まされた時に生み出される
限りなく美しい芸術品。
“ラフファイト”が好まれた時代があったが、
NOAHは保守本流のプロレスをしていた。
その中で、三沢光晴さんは、光り輝いていた。
いつも切れ味鋭いファイトを魅せてくれた。

たった一度だけ、話したことがあった。
ジャイアント馬場さんが亡くなり、全日本プロレスの方向性が
見えなくなった頃、三沢さんが同志をを引き連れNOAHの旗揚げ。
そんなとき、サンケイスポーツを訪ねてくれた。

「新しい団体ですが、本当のプロレスをやっていきたいと思っているんで、
よろしくお願いします」
いわゆる、本流プロレスの妙技を聞いた。

相手がかける技を、どうやってうまくかけられるか…。
これってすごい技術がいるんです。
いろいろなケースを設定して、体を鍛えておかなければなりません。
僕らの体の鍛え方は半端じゃないですよ。
はっきりいって、年間に2~3試合しかしない“格闘技”の方が
楽かもしれません」

誰よりも鍛え、状況判断が出来た人、
NOAHの社長として慕われてもいた。
それが…。嘘であって欲しい…。

冥福を祈りたい。

いよいよ終盤 「東京の魅力」伝わるか スイスで石原都知事プレゼン

(産経 2009.6.10)

2016年の夏季五輪招致を目指す東京など立候補4都市が、
開催都市決定の投票権を持つ国際オリンピック委員会(IOC)委員に、
開催計画を直接説明する「テクニカルミーティング」が
ローザンヌ(スイス)で開かれる。

開催都市が決まる10月2日のIOC総会を除けば、
委員に直接アピールできる最後のチャンスで、
招致活動はいよいよ終盤戦。
東京は、「環境五輪」に加え、「都市で行うスポーツの魅力」を強調、
委員の心をつかみたい考え。

テクニカルミーティングは、2016年五輪招致から導入された新しい試み。
IOCでは、ソルトレークシティー五輪招致をめぐる買収スキャンダル後、
委員の立候補都市への訪問を禁止するなど、
接触機会を厳しく制限してきたが、
招致都市から「公式に計画をアピールする機会が少ない」との不満。

17日はシカゴ(米)、東京、リオデジャネイロ(ブラジル)、
マドリード(スペイン)の順番で、持ち時間(90分)の中で
プレゼンテーションと質疑応答が行われる。
18日は、各都市が与えられたホテルの一室にブースを設けて、
IOC委員の個別訪問を受ける。

プレゼンには、石原慎太郎知事、日本オリンピック委員会の
竹田恒和会長、東京招致委アスリート委員会の小谷実可子委員長ら
計7人が参加。
居並ぶIOC委員を前に、壇上で映像を使いながら英語でスピーチ。

東京は、4月のIOC評価委員会の来日の際、「環境五輪」を強くアピール、
評価委側から、「われわれは国連ではないので、
大きな問題を持ち出されても…」との声が出たため、
今回は、「東京の街中で行うスポーツの魅力にも力点を置く」(招致本部)。
郊外開発型の北京五輪とは正反対の「都市五輪」を印象づける戦略、
ライバルのシカゴも東京と同様に「都市五輪」を掲げ、
どう差別化を図るかがポイント。

9日、プレゼンのリハーサルを実施。
本番で使用する映像について、石原知事が一部変更を求めるなど
「内容はぎりぎりまで修正する」(都幹部)

http://sankei.jp.msn.com/sports/other/090610/oth0906102224017-n1.htm

2009年6月15日月曜日

クローズアップ2009:温室ガス削減中期目標 環境派VS経済派、溝深く

(毎日 6月6日)

2020年までの日本の温室効果ガス削減目標(中期目標)の
策定を巡り、環境重視派の斉藤鉄夫環境相と、
経済重視派の与謝野馨財務・金融・経済財政担当相、
二階俊博経済産業相の間で、攻防が激しさを増している。

麻生太郎首相も出席した関係閣僚会合でも、溝は埋まらなかった。
次期衆院選や都議選をにらんだ各党の思惑も絡み、
複雑な対立構図をどう収拾するのか?

中期目標の策定は、将来の地球温暖化による被害を
抑制できるかだけでなく、今後10年間の経済に大きな影響を与える。
政府の検討委員会は議論を進めるため、
90年比4%増(05年比4%減)から25%減(同30%減)まで
六つの選択肢を示した。
「優れた技術で大幅に削減しなければ、日本の将来はない」

斉藤環境相は、持論の「90年比15~25%減(05年比21~30%減)」
を主張。
「技術的に裏打ちのある数字で、産業競争力にも配慮した目標だ」

二階経産相は、「理想論に走って、途方もない数字を国民に
押しつけるのは適当でない」と反論。
与謝野財務相も、「夢のような技術を前提に論ずることはできない」
との立場で、経済への影響を重視する経産、財務両相と、
環境相との間で溝が深まっている。

対立の背景には、都議選や衆院選を控えた各党の思惑がある。
公明党は昨年6月、「90年比25%減」を提言、
党唯一の閣僚ポストである環境相に斉藤氏を送り込んだ。
斉藤環境相の主張を支持する申し入れ書を、政府に提出。
民主党が、数字上は同じ「90年比25%減」を掲げ、
選挙前に環境に熱心な党イメージを定着させたい戦略がにじむ。
自民党は、特定の目標値を掲げることを見送った。

支持団体の日本経団連は、「90年比4%増」を主張し、
労組の一部とも連携して全国紙に意見広告を掲載。
二階経産相は、「産業界、地方住民の声を受け取って
まとめなければいけない」

斉藤環境相は、海外からの排出権購入なども加算することで
日本の削減幅を拡大するよう訴えている。
与謝野財務相は、「現実的な目標を掲げるべきだ」とけん制。

◇首相、国内外見極め判断

麻生首相は、国連の潘基文(バンギムン)事務総長との電話協議で、
中期目標について、「単なる宣言ではなく、経済的にも実行可能である
ことが基本方針だ」

6案のうち、最有力とされるのは「7%減」案。
5月実施の世論調査でも「7%減」との回答が45・4%と最多、
経産省幹部は、「政府内では『7%減が実現可能なぎりぎりの数値』
という共通認識ができつつある」

「7%減」は、比較する基準年を90年から05年に切り替えて
計算し直すと「14%減」
見かけ上の削減幅が膨らみ、EUの目標である
「90年比20%減(05年比14%減)」、
米国の「90年水準(同14%減)」と同じ。

EUでは、全体としての05年の排出量は90年より減った。
90年を基準年にした方が、05年比より削減率が大きくなる計算。
日本や米国の排出量は、90年以降も増加傾向にあり、
仮に20年の排出水準で比較した場合、
05年を基準にした方が削減率は大きくなる。

日本政府は、中期目標の発表でも05年比の数値を前面に出し、
「大幅削減」の演出を試みる。
国連の気候変動枠組み条約事務局にも、各国の情勢に配慮しながら
削減率を比較できるよう、複数の基準年からの削減率を併記する案。

同条約特別作業部会が示した「ポスト京都」のたたき台では、
「90年」を基準にした目標案が目立つ。
ポスト京都の枠組みは、コペンハーゲンで開かれる
同条約第15回締約国会議(COP15)で決まるが、
日本はさらなる上積みを迫られる可能性も。

環境重視派と経済重視派の双方から一定の理解を得ながら、
国際交渉も優位に進めたい--。
麻生首相は、内外の情勢を見極めて中期目標を決定。

◇首相「各家庭、年30万円払うかね」 「25%減案」を否定

麻生太郎首相は、20年までの温室効果ガス削減目標(中期目標)で、
政府の検討委員会が提示した6案のうち、
最も削減率が大きい「90年比25%減」とする案について、
「(各家庭の年間負担額が)30万円超。
各家庭が30万円を払えと言われて今、払うかね」と、
同案は採用しない考えを示した。

首相は、「各家庭がどれだけ負担することになるというのを、
きちんと示すか示さないかはすごく大事。
格好よく数字だけ言っても、それを裏付けるものは
各家庭に負担がかかってくる」
==============
◇中期目標と長期目標

温室効果ガスの20年までの削減目標。
京都議定書(目標期間08~12年)で、先進国全体に90年比5%減、
日本には6%減を義務付けたが、国際的に約束する
13年以降の目標は未定。
中期目標が、「ポスト京都」枠組み交渉の焦点の一つで、
各国が公表する削減目標や国連での目標設定方法に関する提案が注目。

長期目標は50年ごろまでの削減率で、日本の場合は
「低炭素社会づくり行動計画」(08年7月閣議決定)で掲げた
「50年までに60~80%減」が相当。
==============
◆ポスト京都議定書合意に向けた国際交渉
 6月1~12日 国連・特別作業部会(独ボン)
 7月8~10日 G8サミット エネルギーと気候に関する
           主要経済国フォーラム(イタリア)
 8月10~14日 国連・非公式会合(独ボン)
 9月28日~10月9日 国連・特別作業部会(バンコク)
10月ごろ     気候変動枠組み条約第15回締約国会議
           (COP15)閣僚級準備会合
11月 2~ 6日 国連・特別作業部会追加会合(スペイン・バルセロナ)
12月 7~18日 COP15(コペンハーゲン)

http://mainichi.jp/select/science/news/20090606ddm003010091000c.html

おなかの脂肪から神経細胞 京大、動物実験で成功

(朝日 2009年6月6日)

おなかの脂肪から取り出した幹細胞を、脳の中に入れて
神経細胞を作り出すことに、京都大学再生医科学研究所の
中村達雄准教授らが動物実験で成功。

脂肪の利用は負担が少ないため、将来、脳梗塞や脳腫瘍の
患者への再生医療の足がかりにしたい。
スイスの専門誌に発表。

脂肪の中には、体のさまざまな組織の細胞になりうる
幹細胞が含まれている。
幹細胞そのままでは移植に使えないが、
幹細胞を取り出してスポンジなどの「足場」にしみこませたものを、
傷ついた組織に移植、再生をめざす研究が世界中で進んでいる。

研究チームの中田顕研修員は、ラットのおなかの脂肪から幹細胞を
取り出し、コラーゲンでできた数ミリ角のスポンジにしみこませた。
幹細胞を大量にしみこませるため、3日間、幹細胞を培養しながら、
スポンジを回転させ続ける工夫をした。
このスポンジを、ラットの脳の中にあけた穴に移植。
1カ月後、幹細胞から神経細胞ができたことが確認。

今後、この神経細胞が回路を作るか、
ほかの種類の細胞が増えていないか、長期間、調べる。
チームは、脳腫瘍の手術後や脳梗塞などで欠けた部分を補う
治療法につなげる一歩にしたい。

http://www.asahi.com/science/update/0606/OSK200906060040.html

特集:後藤新平の真髄05 抜群の統率力で舎長に

(岩手日日 2009年4月2日~)

後藤新平は、明治4(1871)年2月、東京暮らしを始めた。
下宿先の主人と合わず、飛び出したまま帰郷したが、
同じ明治4年8月、盛岡を跡にしたのが新渡戸稲造であり、
12月には原敬が東京へ向かった。
それぞれが志を抱いて、東京で生活を始めた。

一人、後藤新平だけが古里に戻った。
悶々とした日々を送っていたところ、福島の須賀川へ来いという
福島県令安場保和からの連絡があり、
憧れの東京ではなく須賀川に落ち着いた。
小学校付属洋学校で、英語の修業に取り組んだが、
原敬はどうであったろうか?

廃藩置県が実施されたのは、明治4年、
後藤新平は廃藩置県以前の上京であって、
原敬はそれを見定めたうえでの東京行き。

明治4年、旧盛岡藩主南部利恭は東京に移住、
旧藩の俊秀子弟のため、英学校共慣義塾を設立、
原敬の兄恭はすでに前藩主利剛の子英麿
(後に一時大隈重信の養子)に随行して上京、林鶴梁塾にいた。

敬は、散切り頭、刀は差さず仙台から品川まで舟で渡った。
塾は、京橋の木挽町にあって、月謝・寄宿料合わせて月額3円。
新平が、安場から阿川を通じて毎月渡される生活費は3円。同じ額。

新平は安政4(1857)年6月5日生、原敬は安政3(1856)年2月9日生。
没年は、後藤が昭和4(1929)年4月13日、
原敬は大正10(1921)年11月4日で、中岡艮一に東京駅で暗殺、
非業の最期を遂げた。

◆洋夷の学僕となった原敬

後藤新平が東京で苦労し、郷里に帰っていた頃、
原敬もまた苦労していた。二人の苦労ぶりを見る。
原敬の状況を、「浮沈録」でみよう。

73(明治6)年冬、マリン宅寄寓。
73年4月、東京に移り、エブラル宅寄寓。
冬エブラルの摂津随行、12月横浜に帰り、
漢書を教えることを業とし、傍らI氏に天主教をうける。
74年4月、弟良路死去12歳。
75年4月21日、エブラル新潟行につき新潟へ。
I氏は海路、原は陸路、28日に新潟着、原帰省し、7日間滞在、
I氏6月29日、弟誠を同行新潟へ。
同年、故あって帰省、I氏も東北に遊ぶ志あり。
4月14日共に新潟を発し、富岡に寄る。

ここより原は上京、3日間滞在。
又、富岡に帰り、I氏とともに東北へ、5月21日帰省、I氏と別れる。
6月27日分家。帰省。

原敬が上京して、キリスト教に関係した時期は3年近く、
東京半年、横浜一年、新潟一年余り。

キリスト教に頼ったのは、おそらく生活のため。
次第に深入りし、遂に受洗するまでに至り、同僚蔑視の中、
平然として洋夷の学僕となる。

原が、自分の力で将来を切り開いてゆこうとする性行が、
次第に明らかとなる時期。(評伝「原敬」上・山本四郎著)
この時期の後藤新平はどうであったか-。

◆明治7年 医学校入学

新平は、須賀川を修学の地としたが、
ここでも“ケンカ”をして二度目の水沢帰りを目指す。
前沢までやってきて足が止まり、再び須賀川へ戻る。

福島県立病院は、明治4年7月、白河県立病院として白河町に設立。
白河は病院として適地でなく、須賀川町に移したいと、
住民は宮原積県令に新築を求めた。

県令は、1000戸程度の町に病院は必要なしと許さず。
宮原県令に対抗し、町の人達、商人は権力に頼らずに
資金を出し合おうと基金を募り、2500円を集めた。

県令の異動があり、宮原県令は退職し、安場保和が着任。
明治6年4月、木造二階建て、総建坪350坪の新築の建物が完成、
付設の教育施設「医学校」も完成。
新平が須賀川に戻り、医学校に入学したのは明治7年2月。

病院新築とともに、横川正臣が初代院長を辞め、
二代目の塩谷退蔵が院長となり、医学校長を兼任。
塩谷は当時、学界きっての博識家。

[学校の課程]
四等 理学(物理) 化学(舎密学)
三等 解剖学 原生学(生理学)
二等 薬剤学 原病学(病理学)
一等 内外科学 臨床実験

課程は四段階だが、一段階終了ごとに試験を受けて次に進む。
入学してから1年、2年もして、学識、技術を習得すれば
助手に採用され、月給も支給される仕組み。
新平の進歩はめざましく、上級に進むが、卒業という記録はない。

須賀川医学校の寄宿舎には内舎、外舎の区別があった。
内舎は17歳から24、5歳までの普通の学生を収容。
外舎には、管内の開業医から再教育のため募集された
官費生が入っていた。

内舎の取り締まりの任に当たっていた舎長は人望がなく、
学校側は新平を任じた。
新平の抜群の学力と統率力を認めた。
前任の舎長は月10円。
阿川から毎月もらうのは3円、新平の心はおどった。
校長から渡された辞令には、月3円の給与と。
原敬も、共慣義塾の月謝・寄宿料が3円。

新平は、医学校の寄宿舎責任者の辞令を床にたたきつけた。
前任者の手当は10円、その三分の一以下。
前任者ができなかった寄宿舎改革の大任を
任せようとすることがおかしいと、新平は反発。

校長が、「そのうちに昇給するように取り計ろう」と
穏やかに言ったことで、新平は生徒取り締まりを受け入れた。
明治8年7月4日のこと。
2カ月後、5円に昇給、半年後、新平は外舎長も兼任し、月給は8円。
新平は得意になった。

http://www.iwanichi.co.jp/feature/gotou/item_11927.html

職員の力(8)研修重ね「支え手」自覚

(読売 6月6日)

職員研修が、大学と地域を融合させる。

山形大学の一室では、十数人の学生と教員、職員が
ホワイトボードの前でひざ詰め議論を交わしていた。
「庭を使えないかな」、「雨が降ったらどうするの」

学生や教職員が、4年前から参加する国際交流行事について、
いかに盛り上げるか、どうしたら町の活性化につなげることができるか、
知恵を出し合っているのだ。

年4回開かれるこの行事の開催地は、
大学から車で30分以上かかる山形県河北町。
交流のきっかけは、同大が2003年に始めた
スタッフ・デベロップメント(SD)と呼ばれる職員研修。

3人程度の職員チームが市町村と協力して、
地域と大学の交流を図る。
机上の空論に終わらせず、成果まで求める――。
同町との交流を任された同大職員の山川正敏さん(35)は、
「行ったこともない町。どうなることやら」と、不安でいっぱい。

町職員と話し合ううち、町が国際交流に力を入れており、
関連行事に三上英司・同大准教授(47)がかかわっていることを知った。
三上さんは三上さんで、多くの学生を参加させたいと願いながら、
移動手段がないのに困っていた。

山川さんは大学にかけあい、町と大学を結ぶバスを出してもらうなど
するうち、町と大学のパイプは太くなった。
「職員なのに、学内を知らない自分、学内の分断ぶりにあきれた」

山形大で、大学の枠を超えたSD「職員サミット」1回目が開かれた。
提唱したのは、桜美林大学大学院で職員養成の授業を担当する
高橋真義教授(62)。

多様な学生をきちんと社会に送り出すには、
柔軟な発想と演出のできる「プロデューサー職員」が不可欠。
「職員は大学を支える大黒柱だという気概を持って」と熱っぽい。

自分の大学に誇りを持ってほしい。
サミットのメーンは、「大学自慢」コンテスト。
昨秋は山口大で開催し、今年は芝浦工業大が舞台となる。

山形大の地域交流事業は、河北町以外でも続いている。
県北部の新庄市など8市町村との連携も。
少子高齢化を抱える地域に学生を送り込み、
現地体験を通して学ぶ授業や課外活動を行っている。

「継続することが重要だが、難しい」と話す担当の小田隆治教授(54)は、
山形大だけでなく、年間20を超える大学で研修を指導。
大きな阻害要因は、「大学組織の不健全さ」
前例踏襲、職員の頑張りを認めない、“出る杭”をやたら打つ。
「ダメな組織で、職員だけ研修しても根付かない」とため息をつく。

職員の変革を求める大学自身が、組織としてのありようを問われる時代。

◆スタッフ・デベロップメント

職員の資質向上・能力開発のための組織的な取り組み。
研修や講演会などを行う大学が多い。
教員の資質向上のための組織的な取り組みは、
ファカルティー・デベロップメント(FD)と呼ばれ、
大学設置基準の改正で昨年4月から大学に義務づけ。

http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/renai/20090606-OYT8T00233.htm

「輝く実績」へのはかない期待

(日経 2009/06/05)

◇加茂具樹(慶応大総合政策学部准教授)

72年(昭和47年)生まれ。95年慶大総合政策学部卒。
01年、慶応大学院博士課程修了、博士(政策・メディア)。
在香港日本国総領事館専門調査員を経て現職。
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今回の経済・金融危機に傷付いた国際社会は、
これまでの中国の輝かしい実績に圧倒され、中国の未来に期待。
それが、「中国は世界を救うか」という問いにつながる。

輝かしい実績とは、民主化運動が政治体制を揺るがした
天安門事件直後の予測に反し、中国共産党が築いた20年間の政治安定。
この安定を背景に、中国経済は急成長し、世界の投資を吸収し続けた。
世界経済のけん引者となった中国は、急拡大する市場を武器に
外交戦略を推進し、自らの存在感を一層際立たせた。

◆高まる雇用不安

「中国が世界を救う」という結論を出すのは、まだ早い。
世界経済・金融危機が、中国の経済と社会に与えた影響は小さくない。
中国共産党が、20年間にわたって安定を築いてきた手法が
これからも通用するのか。
通用しないのなら、共産党はどのように変化するのか。
十分に見極める必要がある。

暴動や大集団による抗議活動といった「群体性事件」が、
2009年に頻発する――。
昨年末、人民日報をはじめとした中国の主要新聞・雑誌が、
こんな特集記事を掲載。

背景には、経済・金融危機に伴う雇用不安。
沿海地域では、中小企業の操業停止や倒産で、
大量の農民工(農村部からの出稼ぎ労働者)が失業。
2月の発表によれば、その数は約2000万人、
全国の農民工1.3億人の15.3%にあたる。

今年7月、大学を卒業する新卒学生は610万人。
昨年卒業し、就職できなかった就職浪人は100万人。
中国が09年、8%の経済成長率を達成できても、
800万人分しか新たな働き口を創り出せない。
8%成長では、農民工と大学卒業生両方の雇用を吸収できない。

◆揺らぐ「社会の公平性」

教育は、「社会の『底辺層』が地位を高めるための唯一の道」
教育を受けたのに仕事に就けない人が増加すれば、
共産党が掲げてきた「社会の公平性」が根底から揺らぐ。
今年は、どのくらいの数の「群体性事件」が起きるか?

中国社会科学院の于建嶸教授によると、05年の発生件数は約8万。
中国が飛躍的な経済成長を続けていた時期に重なる。
今回の経済・金融危機の影響で、経済停滞が長期に及び、
比較的豊かな社会階層も不満を募らせれば、
「群体性事件」の今年の発生件数は05年を大幅に上回るかもしれない。

最近の「群体性事件」として記憶に新しいのは、
昨年6月に貴州省で起きた、3万人規模の住人と警察の衝突。
女子中学生の死亡事件への警察当局の対応に関する家族の抗議が、
官僚機構や貧富の格差への住人の不満に火を付けた。
このような暴動は、中国のどこででも発生する可能性がある。

同省共産党委員会の石宗源書記は、
「長期にわたって社会的な矛盾が積み重なり、
様々な対立点が複雑に絡み合っている。
そうした問題が適切に処理されず、幹部と大衆の関係が緊張してしまった」、
中国の政治構造が暴動の背景にあることを認めている。

中国社会科学院の于教授は、「社会的なうっ憤を晴らす暴動」が
突発的に発生、拡大するリスクを中国は抱えていると警鐘。

◆不満を押さえ込んだのは?

「群体性事件」の頻発は、共産党による統治の安定性に
深刻なダメージを与えるのだろうか。
楽観論と悲観論の両方がある。

カーネギー国際平和財団のチャイナプログラム・シニア・アソシエートである
ペイ・ミンシン氏は、中国の暴動は人民解放軍や武装警察などによって
効果的に処理されており、全土に拡大する可能性は低いと指摘。
共産党は確かに、武力が安定確保のカギだと理解。

今年1月、武装警察部隊共産党委員会の会議に、
中央軍事委員会主席として初めて出席した胡錦濤国家主席は、
出席者全員と接見、「社会安定のカギである」とその活動を讃えた。
過去20年間の共産党統治の安定は、
武装力によってもたらされたわけではない。
むしろ柔軟な政策転換によるところが大きい。

代表例が、市場経済化政策。
最高指導者だった鄧小平氏が、92年に発表した南方談話を契機に、
中国は市場経済を導入、急速な経済成長を遂げた。
00年、江沢民共産党総書記(当時)は私営企業の経営者の入党を公認。
89年、天安門事件直後に江沢民氏は、私営企業の経営者を批判。
市場経済化をテコにした経済成長を牽引し、
経済的にも政治的にも発言力を高めた私営企業の経営者の入党を
促すことによって、共産党の支持基盤の拡大と強化を図った。

◆消えた安定要因

市場経済化の成果を享受した中国社会は、共産党の統治を支持。
仮に利益の配分に一部失敗があったとしても、批判を集めなかった。
経済規模の飛躍的な拡大が、政治的・経済的な利益を拡大。
過去20年間、共産党一党体制のあり方を問う政治改革に、
中国が踏み込まずに済んだのは、市場経済導入のおかげ。

今回の金融・経済危機は、共産党の統治の安定を確保してきた
様々な要因を消し飛ばした。
中国製品の主な輸出先である米国の経済の先行きが見えない中、
かつてのような急速な経済成長は期待できない。

共産党体制がよりどころにしてきた政治的・経済的な利益の拡大は、
経済の持続的な発展が前提。
それが約束されなければ、共産党の安定もまた約束できない。

人民日報は05年に警鐘を鳴らしていた。
中国社会は、「黄金発展期」にあると同時に、
「矛盾突出期」を迎えているという内容。
「改革が絶えず深化していく中で、必然的に利益関係の調整にも
影響が及び、異なる人、異なる集団の間で改革・発展の成果を
享受する程度が違ってくるのは避けられない」
この問題が今、顕在化している。

胡錦濤共産党総書記が提唱する科学的発展観は、
この問題への具体的な対応。
その効果が見えるまで政権の安定は保たれるのだろうか?
中国共産党が、「輝かしい実績」をつくりあげた手法に代わる
新たな道を模索できるか。
それが「中国は世界を救うか」という問いの核心。

http://netplus.nikkei.co.jp/forum/global/t_488/e_1930.php

2009年6月14日日曜日

スポーツ21世紀:新しい波/304 toto好調の波紋/3

(毎日 6月6日)

東京都目黒区は09年度、区立の3小学校の校庭を人工芝化。
スポーツ振興くじ(toto)の売り上げによる
「地域スポーツ施設整備助成」で、くじを運営する
日本スポーツ振興センターから、6750万円の交付が認められた。
区の負担は2250万円。
総事業費の4分の3は、totoの助成によって賄われる。

区教委の板垣司・学校施設計画課長は、
toto助成を「地方自治体には、のどから手が出るほど欲しい助成」
区は、04年度から区立小・中学校のグラウンドの芝生化を進めている。

これまで都や国の支援を受けたこともあったが、
助成の割合は多くて総事業費の3分の1。
3分の2は区の持ち出し。
それに比べ、toto助成は「自己負担分」が4分の1で済み、
破格の好条件となる。

学校施設計画課が、toto助成の「好条件」を知ったのは08年度。
それまではtotoの売り上げ低迷期が続き、
助成を期待できる状態でもなかった。
「そんな条件の良い助成金があるとは知らなかった」と板垣課長。

くじを所管する文部科学省企画・体育課も、
「自治体の認知度が上がっていない」

グラウンドの芝生化が柱となる「施設整備」の
09年度の助成件数は、70件で計約12億4900万円。
総合型地域スポーツクラブの757件(約17億4300万円)を、
件数で大きく下回った。
08年度、totoは過去最高の897億円を売り上げたが、
助成申請が少なく、50億円が余る形。

その一因は、施設整備助成の申請の少なさにあった。
自治体の動きが鈍かった理由について、
センターの担当者は、「昨年11月から申請を受け付けたが、
各自治体の09年度予算案が固まる時期。
それがネックとなったのでは」

申請手続きが煩雑であることや、芝生の維持管理まで
助成対象とならないことも背景に。

5月下旬から追加募集が始まったが、
toto助成はスポーツ振興の頼れる「財布」となるか。
真価を問われるのは、これからとなる。

http://mainichi.jp/enta/sports/21century/

森林伐採:夏の降水量3割減 産業革命以前のインドで推計

(毎日 6月6日)

インドを覆っていた森林が、18世紀以降伐採された結果、
夏の降水量が3割程度減った可能性が高いことが、
海洋研究開発機構(横須賀市)と名古屋大の分析で分かった。

産業革命以降の化石燃料の大量使用が、
地球の気候に影響を与えたといわれるが、
それ以前にも人間の活動が気候を変えていたことをうかがわせる。
米科学アカデミー紀要に発表。

インドには、かつて広大な森林が広がっていた。
海洋機構の高田久美子主任研究員(気象学)らは、
土地利用の変化が気候に与える影響を調べるため、
インドが森林に覆われていた1700年と、
木々が伐採され農地開発が進んだ1850年を基準年に選んだ。

米地質調査所が保管している植生の調査資料に基づき、
地球全体の大気や熱の移動をコンピューターで計算し、
基準年の前後計50年間の平均降水量を予測。

その結果、夏(6~8月)の降水量がインド西部で約3割減。
この地域は、アジアモンスーン(季節風)の影響で、
年間降水量の大部分が夏に集中。

地表が森林だった時代は、上空に雲ができやすく雨が多かったが、
空気がとどまりにくい農地になって、少雨になったと考えられた。
この傾向は、ヒマラヤの降雪量の変化から予想できる降水量と一致。

高田さんは、「気候変動に影響を与えるのは、
温室効果ガスだけではない。
森林伐採などによる土地利用の変化も、考慮する必要」

http://mainichi.jp/select/science/news/20090606k0000e040010000c.html

特集:後藤新平の真髄04 安場の胸熱い厚情

(岩手日日 2009年4月2日~)

後藤新平を調べて思いつくのは、安場保和の存在。
もともと運命も才能のうちと言われるが、
その才能のうちに入るのが安場保和とのかかわりであり、
新平の才能を評価したればこそ。

安場保和は、天保6(1835)年に熊本県に生まれた。
彼は、旧熊本藩士で横井小楠の門に学び、
明治維新とともに政府役人に。
戊辰戦争には、東海道鎮撫総督参謀の一人として参加。

安場が、東北地方へ第一歩を印したのは、
維新後直ぐに胆沢県権大参事に任命されたとき。
明治3年、熊本県大参事に転じ、大蔵大丞に栄転、
明治4年、岩倉具視米欧視察団の随行員として加わる。
サンフランシスコまでは随行したが、安場は英語が出来ないものが
一緒に旅をしても国費の無駄である、として離脱、帰国した。

旅の荷が解けぬ間もなく、福島県権令(県令・知事)に任命。
岩倉、大久保利通が相談しての対応。
同年10月、県令となる(明治10年に退任)。

この頃、新平は胆沢県庁の給仕を辞め、東京に出てはみたが、
下宿先の主人と意見が合わず水沢に帰郷。
安場は、福島県権令に着任とともに、胆沢県庁時代の書記阿川光裕を
福島県庁に呼び、阿川を介して新平の様子を探らせた。

もし、安場が岩倉米欧視察団の随行を辞めて帰国しなかったら、
後藤新平はどうなっていたであろう。
安場はもう一度、新平の面倒をみてやろうと思っていた。
安場の厚情に、新平は胸を熱くしたに違いない。

安場は、須賀川に福島県立病院を設立。
明治6年、福島、三春、若松、平に中学校を設立。
岩手では、明治13年、盛岡中学校が最初に設立されたことと対比し、
安場の教育施策の進歩性がうかがえる。

安場は、開明県令と称されたが、その一端が病院設立、
他県に先んじて中学校を設立したりと、その足跡がうかがえる。
小学校に、洋務学校を併設した。
新平も洋務学校に学び、英語の修習。

安場の意向を体して、阿川は新平に将来を
どのように考えているかと探った。
安場は、新平が高野長英と親類筋ということに関心を払った。
横井小楠の門下生と称する安場であるが、
高野長英に関心を持ち、新平の将来にも心を寄せる。

◆長英あっての新平

高野長英(1804~50年)は、幕末の蘭学者。
仙台藩の支藩、奥州胆沢郡水沢の領主伊達将監の家臣後藤撫介を父、
母美代(美也)のもと、水沢に生まれた。
名は讓、幼名悦三郎。郷斎と称した。
9歳で父と死別、母方の叔父高野玄斎の養子。
玄斎は、杉田玄白の門人、伊達将監の侍医。

長英は、文政3(1820)年、江戸で
蘭学医杉田伯玄(玄白の息子)に学んだ。
吉田長淑の内弟子となって、長英と改めた。
文政7(1824)年、長淑が急死、
翌8年、シーボルトを慕って長崎に赴き、学僕となり鳴滝塾に学んだ。
長英は、飢餓対策に取り組み、対外政策を批判し「夢物語」を著した。
彼の関心は、主として自然科学研究に向けられていた。

行動は反幕府であった。
兵制全書などを翻訳、江戸の隠れ家を幕吏に知られ、
庚戌3(1850)年自決。

安場は、新平に関心を持ち、学費等を支援したが、
新平が高野長英と縁があるからであろう。
椎名悦三郎(故人)が、椎名裁定によって三木武夫を
総理にしたことは有名であるが、悦三郎は高野長英の幼名、
椎名にとって、“高野長英”の幕末の行動を世に残したいという思い。

新平を語るに当たって寄り道をした。
高野長英は、水沢から江戸に出て蘭方医術を学び、
文政8(1825)年、渡辺華山らと尚歯会を結成し、
海外事情の研究を広めた。

◆福島洋学校に入学

安場は、新平に医学を修めることを望んでいた。
しかし、新平には大志がある。
人の病を治すより、国家の病を治す人物になりたい。
国運の双肩をになって、天下に号令することこそ男子の本懐であり、
他の事は一生を捧げるに値しない。
これが新平の志である。

阿川は、新平に医者になれといって譲らない。
新平の性格があまりにも奔放であること、
新平の少年時代のことを知っていた。
東京では、主人の荘村省三と争って飛び出し、郷里へ逃げ帰った。
父十右衛門は、新平の将来は医者となる生活を望んでいた。

明治6年、再び新平は水沢を出た。
福島県須賀川支庁官舎に阿川を訪ねた。
阿川は、「医学をやる決心はついたか」と聞き、
新平は「決心しました」と答えた。

こうして、新平は須賀川に留まることに。
新平は、福島洋学校に入った。
同校は、福島小学第一校に付属して設けられていた。
この学校は、新学制に基づいて福島県内で最初に建てられた小学校で、
生徒にも英語を教える制度だったのが特色。
視察に来る東京の役人たちは、子供(小学生)らが横文字を
読み書きすると舌を巻いた。

安場が、岩倉米欧視察団の一員として出発したのに、
英語が出来ず、一人日本に帰った悔しさを、
福島県令に就任したことを契機に教育に生かした証し。

安場福島県令には、13歳と8歳になる2人の令嬢もいて、
髪を稚児輪に結び、花模様の友禅の被布の袂をゆらゆらさせ、
女中に付き添われて通学、風や雨の日は人力車で通っていた。
同じ学校に、本校は小学校、付属の建物は洋学校と、
国際化時代の今日にも参考になる学校分離策。

このころになると、原敬の動きも気にかかる。触れておきたい。

http://www.iwanichi.co.jp/feature/gotou/item_11777.html

職員の力(7)生活・マナー 側面支援

(読売 6月4日)

学生の生活習慣やマナーの指導でも、職員が活躍。

目玉焼き、ハム、野菜サラダ。
鳥取大学米子キャンパスの食堂で、医学部医学科の新入生
31人が朝食をとっていた。
井上貴央医学部長(57)ら教授や上級生も席を並べ、
勉強やサークル活動について質問を受けたり、アドバイスをしたり。
時計の針が8時半を指すと、一斉に教室へ向かった。

この催しは、新入生に無料で朝食を提供する「ふれあい朝食会」。
「朝食をしっかり食べて、しっかり学んでほしい」との狙いで、
2004年度から始めた。
鳥取大の新入生の8割は県外出身で、人脈づくりや
1時限目の出席率アップにも一役買っている。

メニューは、選べる主菜と、ご飯、みそ汁。
費用は1人分が300円、大学と大学生活協同組合連合会が負担。
1年生の上田康史さん(19)は、「1人暮らしを始めたばかり。
いつもは抜くことが多い朝食をしっかり食べられ、友達も増えた」と満足。

米子キャンパスのほか、地域学部など3学部を置く鳥取キャンパスで、
4月中にそれぞれ4日間実施。
職員十数人が、朝食券を回収したり、学生を席に誘導したりした。

鳥取キャンパスでの朝食会には、北嶋充学生部長(58)が
毎朝顔を出した。
「餅は餅屋で、生活面の支援は職員の出番。
積極的に学生に接触し、早めの問題解決を図っている」

本名俊正理事(63)は、「職員は、縁の下の力持ちではなく、
教員とともに表舞台に出てほしい」と期待。

「必要なのは、TPOをわきまえた身だしなみ」、
「美しい表情は心の中から」、
「相手の話に真摯な気持ちで耳を傾けることから、コミュニケーションは始まる」

実践女子大学は、1~4年の全学生に、礼儀作法や心構えを解説した
小冊子「マナーの実践」を配った。
進路指導を担当するキャリアセンターが、社会への巣立ちの第一歩となる
就職活動などに役立ててほしい、と独自に作成。

お辞儀の仕方、電話の受け答えの方法。
「マナー」と銘打ってはあるが、人生訓の色合いも濃い。
先輩が後輩に語りかける口調で、すてきな女性に近づくための
手助けをするという趣向。

生活科学部4年の水野絵夢さん(21)は、
「笑顔や前向きな考え方の大切さなど、卒業後も役立ちそう」

執筆したキャリアセンター次長の串崎扶美子さん(54)は、
同大の系列校に8年間通った卒業生。
旅行業界で15年以上働いた経歴を持ち、国際的なマナーにも精通。
串崎さんは、「学生が社会で花開いてほしい。
一職員として母のような気持ちで、できることをしただけ」

学業、生活の両面で、より質の高い学生を社会に送り出すため、
裏方の努力が続く。

◆キャリアセンター

就職や進学など、学生が進路を考えるためのサポートを行うために
大学が設置する部署。
キャリアアドバイザーなどと呼ばれる職員らが常駐し、
主に3、4年生を対象に就職情報の提供や履歴書の書き方、
面接の受け方などの支援、相談にあたる。
就職部などと呼ばれたこれまでの組織に比べ、
早い学年からキャリア教育を行う場合が多い。

http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/renai/20090604-OYT8T00287.htm

経済危機の本当の勝者

(日経 2009/05/29)

◇肖敏捷(大和総研シニアエコノミスト)

64年(昭和39年)中国陝西省生まれ。86年中国武漢大外国語学部卒。
94年、筑波大学院博士課程修了、大和総研入社。
香港、上海の現地事務所勤務を経て現職。

今回の経済・金融危機は、世界に大きな爪あとを残した。
10年以上前のアジア通貨危機も、世界を揺さぶった。
中国も、資本市場の閉鎖性に助けられ、
ほかの国・地域よりダメージは小さかったものの一定の影響を受けた。
2回の金融・経済危機を振り返ると、
不思議な現象が起きていることに気付く。
危機が発生するたび度に、中国の存在感がますます際立つ。

1997年7月2日、タイバーツ暴落をきっかけに起きたアジア通貨危機。
アジア各国の経済や金融が深刻なダメージを受ける中、
中国が自国の輸出企業を救済するため、人民元切り下げに
踏み切るのではないかとの観測。

当時の朱鎔基首相は、「人民元を切り下げないことが、
アジア経済に対する最大の貢献だ」と宣言。
長期建設国債で裏打ちした内需拡大策を発表。
国際社会は、これをきっかけに中国を、「責任のある大国」、
「アジア経済の防波堤」などと持ち上げた。

◆賞賛がかき消した過去

中国は94年、人民元レートを33%切り下げた実績。
アジア通貨危機で人民元を切り下げなかったのは、
返還直後の香港を守る必要に迫られたため。
こうした事実は、賞賛の声にかき消された。

今回の金融危機でも、中国の存在感は高まった。
中国政府は2008年11月9日夜、総事業規模4兆元
(同年の名目国内総生産の13%相当)の景気対策を発表。
世界を驚かせた。

09年4月10日、日本政府が総事業規模56.8兆円の
経済危機対策を発表するに当たって、
中国へのライバル意識があったかどうかは定かでないが、
人民元に換算すると約4兆元で中国と同規模。
日本の経済対策の発表資料は、A4の紙で37枚という力の入りよう。
中国の景気対策は、1枚程度の粗末なもの。

国際社会の関心を独り占めにしたのは、中国だった。
20カ国・地域(G20)が、08年11月14~15日、
金融サミットの直前というタイミングの効果もあった。
中国は、世界各国の景気対策ブームに火を付け、
国際社会はそのリーダーシップの強さと実行力の高さを評価。

◆過剰な期待

「世界経済の救世主」、「米国、中国を主軸とする『G2体制』の出現」
など、これまでの常識では考えられなかった賛辞。
「100年に1度」のグローバル金融・経済危機といわれるが、
中国への世界の賛辞も、少なくともここ100年で最高級。

今回の危機の元凶とされる米国に、中国がたたき付けた「挑戦状」も、
中国が金融危機の勝者だと改めて印象づけた。
「挑戦状」とは、中国人民銀行の周小川総裁が
09年3月23日に発表した論文のこと。

総裁は、国際通貨基金(IMF)の特別引出権(SDR)を
準備通貨にすべきだと主張。

政府や国際機関の間の決済にしか使えないSDRを、
国際貿易や金融取引の決済手段としても活用すべきだと訴え、
国内総生産(GDP)に応じてSDRの構成通貨を見直す必要性に言及。
この発言が、人民元を構成通貨に加えることを念頭に置いている。

SDRの価値を決める通貨バスケットは、
米ドル、欧州通貨ユーロ、日本円、英ポンドで構成。
この仕組みの見直しに踏み込んだ中国の中央銀行総裁の発言は、
ドル基軸通貨体制への中国の挑戦。

◆米国と一蓮托生の実態

08年11月22日、ペルー・リマで開いたアジア太平洋経済協力会議
(APEC)首脳会議での日中首脳会談で、
麻生太郎首相は、胡錦濤国家主席にIMFの出資比率見直しについて、
「中国のような外貨準備を多く保有している国の参加を歓迎したい」
胡主席は返答しなかった。

その後、米国に挑戦状をたたき付けるかのような動きに出るまでの
数カ月で、中国は自信を強めていった。

米国が今回の最大の敗者だとすると、
モノ(対米輸出への依存度)とカネ(米国債の大量保有)の両面で、
米国と一蓮托生の関係である中国も同じ立場。
4兆元の景気対策は、世界の救世主になるための措置ではない。
金融危機のダメージを受けた実体経済を、立て直すための手段。

世界景気や金融システムが、落ち着きを取り戻すにつれ、
中国への過剰な期待もやがて修正される。
中国は、世界経済の復興に積極的・建設的な役割を果たす責任を負う。
周囲の期待に応え、ドン・キホーテのように立ち振る舞う余裕はない。

◆問われる対策の効果

中国に必要なのは、4兆元の景気対策を通じて内需拡大を加速し、
経済成長の持続性を高めること。
これが、世界の期待に応える最良の方法。
中国が本当の勝者になれるかどうか?
チャレンジは始まったばかりだ。

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