2009年6月20日土曜日

特集:後藤新平の真髄09 結婚相手は安場和子

(岩手日日 2009年4月2日~)

愛知県病院時代の新平にとって、おそらく衝撃的な事件とも
いえるものは、ローレツ博士から言われた
「近親者同士の結婚は不道徳だ」と忠告されたこと。

父十右衛門は、新平の母の実家である坂野家の娘ひでを
嫁にもらうことで話を進めた。
従兄妹同士の結婚になるわけだが、幼少の頃から顔なじみで、
新平はひでとの結婚を当然のように思っていた。

坂野家、後藤家とも双方に問題があった。
坂野家が、初め新平とひでとの婚約を破棄しておきながら
復活しようと計ったこと。曲折があって、縁談は復活。

新平と坂野ひでとの結婚手続きは、婿出席がないまま、
明治13年11月に行われた。親の手元で結婚が進められた。
明治14年1月、十右衛門が急病との電報によって
水沢に呼び寄せられ、自分の妻となるひでを見た。
1年後に新平は、彼女を離縁すると言い出した。
十右衛門と新平との間にいざこざがあって、新平はひでとの離婚が実現。

ここに至るまでには、ローレツ博士の「近親結婚」は不道徳、という発言が
あったことが決定的要因に。

新平は、明治16年9月、27歳の時、安場保和の二女和子と結婚。
和子は9歳若かった。
安場と新平の信頼感が、いかに強かったかを知ることができる。
新平と和子さんの結婚式の写真は実にいい。

◆暴漢が板垣退助を襲う

明治13年3月、安場は、元老院議員に栄転して名古屋を去る。
後藤新平と和子の結婚式を挙げる前の明治14年9月。
全国的に自由民権運動を展開しようと、
板垣退助は同志とともに土佐の高知を出た。
藩閥政治の積弊に苦しんでいた住民は、歓呼して板垣を迎えた。

10月、自由党は創立、板垣は総理となった。
自由党設立後、板垣は全国遊説の途に着いた。
静岡、名古屋と遊説して、明治14年4月5日、岐阜に入った。
岐阜市今小町の玉井屋旅館に一泊後、
板垣一行は濃飛自由党懇親会会場に向かった。
懇親会は、午後3時から始まり聴衆は約300人。
地元の濃飛自由党役員岩田徳義の開会挨拶に続いて
党員演説、板垣退助が立ち上がった。

板垣は、「本日、諸君の御招待を得まして、
この懇親会の盛宴に連なることができたのは、光栄の至り。
天下国家のために尽くすところあらんと望んでおられようが、
一言、平素の所懷を述べて歓迎のご好意に酬いたいと思う次第です。
世人は、自由党をめざして政府を転覆し、
天皇の地位を危うくしようとする暴徒の集まりであるかのように
言いふらしております。
われわれは左様なことは、全く考えない。
願いはひとりひとりが、餓えることなく、こごえることなく、
安らかに生を楽しむることができるように、政治が行われること」

板垣はおだやかで、政談演説というより学術講演に近かった。
「人間界の出来事は、しばしば天地自然の現象と同じ原理に
支配されることがある。天体の運行が、遠心力と求心力の調和によって
保たれることは、諸君御承知の通りですが、
人間社会においても、同様のことが行われている。
天皇を中心とする求心力と、人民の自治を望む遠心力が均衡を保って、
ここにはじめて円満なる政治が行なわれる」

板垣は、たくみに比喩をもちいながら立憲政治の本質を説き、
演壇を立ち去った。
1時間にわたる演説を終え、板垣が控え室へ戻ると、
随行の幹部、地元有志が演説に対する称賛と感嘆の声を上げた。
板垣は、「風邪気味なので一足先に失礼して…」と見送りを断った。
そして一人玄関に出た。

板垣が歩き出したところへ、横合いから飛び出した男が。
反射的に逃げ出そうとした。
その瞬間、間近に迫った男が板垣の胸元へ短刀を突き立てた。

◆新平に往診要請が再三

閑話休題-。
「戦い終わって日が暮れて」-。
昭和20年8月15日は、当時の人達にとっては思い出が多い。
翌21年4月、松岡修太郎京城帝国大学教授が、
朝鮮から引き揚げて盛岡中学校の校長となった。

松岡校長の試みとして、外部から講師を呼び、
一種の“教養”大学講座を設けた。
昭和23年2月、5年生を対象に開いたのは、「騎士道」、「新民法」、
「新渡戸稲造」の講座。
講師は、中村金雄、中川善之助、益富政助の3氏。
中村さんは、ボクシングの世界チャンピオン、
中川さんは東北大教授で民法の権威、
益富さんはキリスト教鉄道青年協会の理事長。

内容は忘れた。
中川教授が言ったことの一言が、後藤新平に対する
ローレツ忠告とともに蘇った。
中川教授が、戦後の民法では結婚は両姓の合意で
成立することになったと強調したこと。
後藤新平は初め、親が言うように従兄妹結婚に踏み切った。
その後に別れたが、ローレツ忠告に従ったもの。

話を元に戻そう。
板垣退助から往診を求める電話がかかってくる。
後藤は、やむを得ず岐阜へ電報を打って往診を断った。
岐阜からは再三電報があり、板垣の傷は肺にかかっている疑いもあると、
強く往診を求められた。
新平は、こうまでいわれては動かざるを得ない。
板垣が企てていることが、革命か反乱か知れないが、
維新に功労のあった人。
再三懇望されて行かないという手はない。
覚悟を決めて急に仕度を整え、明治14年4月6日、
夜中の3時ごろ名古屋を立った。

板垣が泊まっている玉井屋旅館へ着くと、上を下への大騒ぎ。
板垣の部屋へ足を踏み入れた後藤新平は、
大勢の視線を受けてたじろいだ。
が、そこは新平である。
板垣の枕頭に寄って、「御負傷、御本望でしょう」といった。

「板垣死すとも自由は死せず」と板垣は言ったという。
後年、新平は周辺を見回して環境の不潔さを目に留め、
衛生が劣悪なのに、「なにが自由か…」と言ったと。
いかにも新平らしい。
ローレツに師事したことで、公衆衛生の重要性を学んだ新平ならではの発言。

http://www.iwanichi.co.jp/feature/gotou/item_12593.html

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