2009年6月18日木曜日

特集:後藤新平の真髄07 安場と新平 再び

(岩手日日 2009年4月2日~)

安場保和から後藤新平が、月々3円をもらって苦労していた。
明治5年のことだが、今の通貨ならどの程度か?
当時の3円は、現在は2780倍に。ざっと8300円。
新平、原敬らは1か月8300円で暮らしていた。ことに。
困苦欠乏にもめげず、ひたすら未来の夢を実現しようと
懸命に努力していたことが分かるだろう。
当時、巡査の月給は4円。
推察すると、少なくない額であり、援助を続けた安場保和は
どんな人物であったろうか。

◆安場保和という人物

『日本の歴代知事』という本。
愛知県の項を引くと、安場保和についてこう書かれている。

安場は、天保6(1835)年4月17日、旧熊本藩士の子として生まれる。
幼名を一平と称した。維新の功臣の一人。
明治2(1869)年から胆沢県(岩手)、酒田県(山形)大参事
(現在なら副知事相当)を歴任、明治4年に大蔵大丞、
租税権頭と兼ねて従五位に任ぜられる。
明治5年、岩倉具視らと欧米歴訪の旅に出るが、中途で日本へ帰る。

明治5~8年まで福島県令を務める。
明治8年12月3日、愛知県に転任。在位期間は、わずか18日間。
歴代知事の中で、名前だけ連ねただけ。
しかし、胆略のある知事だったとの評判で、地租改正事業には
農民相手に大騒擾を惹起して頭を痛めた。
農業に尽くした功績も見逃せない。
愛知県に尽くした水利治績は、今日の明治用水の礎として特筆に値する。

福島県令時代はどうであったろうか?
明治5(1872)年6月、3代目福島県令として就任したのが、
「開明県令」といわれた安場。
横井小楠の門に学び、戊辰戦争には東海道鎮撫総督参謀の一人として参加。
東北地方へ第一歩を印したのは、胆沢県(岩手)権大参事となった時。

福島県権令に着任して、再び東北地方の開明に情熱を傾けることに。
安場の情熱は、後藤新平にも向けられた。
福島県時代の安場は、教育に最も力を入れた。
自ら先頭に立って小学校の設置を図るとともに、
未就学児童の実態調査、就学督励に尽力。
教員養成を目的に、講習所(福島師範学校‐福島県立大学)を開設、
福島医学校の前身・須賀川医学校を設け、教育県福島の基礎づくりに。

人材の発見と登用に、大きな力を傾けた。
安場の福島時代、小学校に併設した洋学校に後藤新平を呼び寄せ、
須賀川医学校に学ばせた。
安場が胆沢県権大参事として水沢に来なかったら、
後藤新平の前途はどうなっていたのであろうか?

人は人を知る。いや、知られる。
かくて、才能発揮の機会が到来する。
新平の生涯をみると、出会いの妙を思う。

◆新平は一流の医師へ

新平は、明治6年、阿川の官舎に入って、福島小学第一洋学校に入学。
明治7年、中途で帰郷した。
父十右衛門はこれを戒め、再び引き返す。
須賀川医学校に入学し、生徒寮に入る。
阿川の留守中に預かり金を費消し、始末に困って、
父十右衛門に手紙を送り、救済の懇願をする。

明治8年、福島県病院六等医生となり、医学校生徒取締り(内舎副会長)
として月給3円を支給。
明治9年、生徒寮内外舎長となり、月給8円を支給。
自ら調剤の眼薬「済衆水」を父に発売。
8月、名古屋に着く。
安場が愛知県知事になったのを契機に、阿川光裕が愛知県に転任、
阿川邸に落ち着く。
愛知県病院三等医を拝命し、医局診療専務となる。月給10円。

ここまでの新平にとって、安場は大きな力を持つ支援者。
新平は、それに応えるべく、外科医技量を発揮。

明治9年、新平は阿川家を出て、教授司馬凌海の家塾から
愛知県病院に通い、教師ローレツの指導を受け、
一層医師としての腕を磨く。
次第に一流の医師としての評価を得る。

明治10年、公立医学所二等授業生となり、月給12円を支給。
新平が出世街道を歩んでいた時期、西南戦争が起き、
維新の功労者西郷隆盛が自刃。

(参考:後藤新平記念館発行の資料)

http://www.iwanichi.co.jp/feature/gotou/item_12308.html

0 件のコメント: