2009年6月14日日曜日

特集:後藤新平の真髄04 安場の胸熱い厚情

(岩手日日 2009年4月2日~)

後藤新平を調べて思いつくのは、安場保和の存在。
もともと運命も才能のうちと言われるが、
その才能のうちに入るのが安場保和とのかかわりであり、
新平の才能を評価したればこそ。

安場保和は、天保6(1835)年に熊本県に生まれた。
彼は、旧熊本藩士で横井小楠の門に学び、
明治維新とともに政府役人に。
戊辰戦争には、東海道鎮撫総督参謀の一人として参加。

安場が、東北地方へ第一歩を印したのは、
維新後直ぐに胆沢県権大参事に任命されたとき。
明治3年、熊本県大参事に転じ、大蔵大丞に栄転、
明治4年、岩倉具視米欧視察団の随行員として加わる。
サンフランシスコまでは随行したが、安場は英語が出来ないものが
一緒に旅をしても国費の無駄である、として離脱、帰国した。

旅の荷が解けぬ間もなく、福島県権令(県令・知事)に任命。
岩倉、大久保利通が相談しての対応。
同年10月、県令となる(明治10年に退任)。

この頃、新平は胆沢県庁の給仕を辞め、東京に出てはみたが、
下宿先の主人と意見が合わず水沢に帰郷。
安場は、福島県権令に着任とともに、胆沢県庁時代の書記阿川光裕を
福島県庁に呼び、阿川を介して新平の様子を探らせた。

もし、安場が岩倉米欧視察団の随行を辞めて帰国しなかったら、
後藤新平はどうなっていたであろう。
安場はもう一度、新平の面倒をみてやろうと思っていた。
安場の厚情に、新平は胸を熱くしたに違いない。

安場は、須賀川に福島県立病院を設立。
明治6年、福島、三春、若松、平に中学校を設立。
岩手では、明治13年、盛岡中学校が最初に設立されたことと対比し、
安場の教育施策の進歩性がうかがえる。

安場は、開明県令と称されたが、その一端が病院設立、
他県に先んじて中学校を設立したりと、その足跡がうかがえる。
小学校に、洋務学校を併設した。
新平も洋務学校に学び、英語の修習。

安場の意向を体して、阿川は新平に将来を
どのように考えているかと探った。
安場は、新平が高野長英と親類筋ということに関心を払った。
横井小楠の門下生と称する安場であるが、
高野長英に関心を持ち、新平の将来にも心を寄せる。

◆長英あっての新平

高野長英(1804~50年)は、幕末の蘭学者。
仙台藩の支藩、奥州胆沢郡水沢の領主伊達将監の家臣後藤撫介を父、
母美代(美也)のもと、水沢に生まれた。
名は讓、幼名悦三郎。郷斎と称した。
9歳で父と死別、母方の叔父高野玄斎の養子。
玄斎は、杉田玄白の門人、伊達将監の侍医。

長英は、文政3(1820)年、江戸で
蘭学医杉田伯玄(玄白の息子)に学んだ。
吉田長淑の内弟子となって、長英と改めた。
文政7(1824)年、長淑が急死、
翌8年、シーボルトを慕って長崎に赴き、学僕となり鳴滝塾に学んだ。
長英は、飢餓対策に取り組み、対外政策を批判し「夢物語」を著した。
彼の関心は、主として自然科学研究に向けられていた。

行動は反幕府であった。
兵制全書などを翻訳、江戸の隠れ家を幕吏に知られ、
庚戌3(1850)年自決。

安場は、新平に関心を持ち、学費等を支援したが、
新平が高野長英と縁があるからであろう。
椎名悦三郎(故人)が、椎名裁定によって三木武夫を
総理にしたことは有名であるが、悦三郎は高野長英の幼名、
椎名にとって、“高野長英”の幕末の行動を世に残したいという思い。

新平を語るに当たって寄り道をした。
高野長英は、水沢から江戸に出て蘭方医術を学び、
文政8(1825)年、渡辺華山らと尚歯会を結成し、
海外事情の研究を広めた。

◆福島洋学校に入学

安場は、新平に医学を修めることを望んでいた。
しかし、新平には大志がある。
人の病を治すより、国家の病を治す人物になりたい。
国運の双肩をになって、天下に号令することこそ男子の本懐であり、
他の事は一生を捧げるに値しない。
これが新平の志である。

阿川は、新平に医者になれといって譲らない。
新平の性格があまりにも奔放であること、
新平の少年時代のことを知っていた。
東京では、主人の荘村省三と争って飛び出し、郷里へ逃げ帰った。
父十右衛門は、新平の将来は医者となる生活を望んでいた。

明治6年、再び新平は水沢を出た。
福島県須賀川支庁官舎に阿川を訪ねた。
阿川は、「医学をやる決心はついたか」と聞き、
新平は「決心しました」と答えた。

こうして、新平は須賀川に留まることに。
新平は、福島洋学校に入った。
同校は、福島小学第一校に付属して設けられていた。
この学校は、新学制に基づいて福島県内で最初に建てられた小学校で、
生徒にも英語を教える制度だったのが特色。
視察に来る東京の役人たちは、子供(小学生)らが横文字を
読み書きすると舌を巻いた。

安場が、岩倉米欧視察団の一員として出発したのに、
英語が出来ず、一人日本に帰った悔しさを、
福島県令に就任したことを契機に教育に生かした証し。

安場福島県令には、13歳と8歳になる2人の令嬢もいて、
髪を稚児輪に結び、花模様の友禅の被布の袂をゆらゆらさせ、
女中に付き添われて通学、風や雨の日は人力車で通っていた。
同じ学校に、本校は小学校、付属の建物は洋学校と、
国際化時代の今日にも参考になる学校分離策。

このころになると、原敬の動きも気にかかる。触れておきたい。

http://www.iwanichi.co.jp/feature/gotou/item_11777.html

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