2009年6月15日月曜日

特集:後藤新平の真髄05 抜群の統率力で舎長に

(岩手日日 2009年4月2日~)

後藤新平は、明治4(1871)年2月、東京暮らしを始めた。
下宿先の主人と合わず、飛び出したまま帰郷したが、
同じ明治4年8月、盛岡を跡にしたのが新渡戸稲造であり、
12月には原敬が東京へ向かった。
それぞれが志を抱いて、東京で生活を始めた。

一人、後藤新平だけが古里に戻った。
悶々とした日々を送っていたところ、福島の須賀川へ来いという
福島県令安場保和からの連絡があり、
憧れの東京ではなく須賀川に落ち着いた。
小学校付属洋学校で、英語の修業に取り組んだが、
原敬はどうであったろうか?

廃藩置県が実施されたのは、明治4年、
後藤新平は廃藩置県以前の上京であって、
原敬はそれを見定めたうえでの東京行き。

明治4年、旧盛岡藩主南部利恭は東京に移住、
旧藩の俊秀子弟のため、英学校共慣義塾を設立、
原敬の兄恭はすでに前藩主利剛の子英麿
(後に一時大隈重信の養子)に随行して上京、林鶴梁塾にいた。

敬は、散切り頭、刀は差さず仙台から品川まで舟で渡った。
塾は、京橋の木挽町にあって、月謝・寄宿料合わせて月額3円。
新平が、安場から阿川を通じて毎月渡される生活費は3円。同じ額。

新平は安政4(1857)年6月5日生、原敬は安政3(1856)年2月9日生。
没年は、後藤が昭和4(1929)年4月13日、
原敬は大正10(1921)年11月4日で、中岡艮一に東京駅で暗殺、
非業の最期を遂げた。

◆洋夷の学僕となった原敬

後藤新平が東京で苦労し、郷里に帰っていた頃、
原敬もまた苦労していた。二人の苦労ぶりを見る。
原敬の状況を、「浮沈録」でみよう。

73(明治6)年冬、マリン宅寄寓。
73年4月、東京に移り、エブラル宅寄寓。
冬エブラルの摂津随行、12月横浜に帰り、
漢書を教えることを業とし、傍らI氏に天主教をうける。
74年4月、弟良路死去12歳。
75年4月21日、エブラル新潟行につき新潟へ。
I氏は海路、原は陸路、28日に新潟着、原帰省し、7日間滞在、
I氏6月29日、弟誠を同行新潟へ。
同年、故あって帰省、I氏も東北に遊ぶ志あり。
4月14日共に新潟を発し、富岡に寄る。

ここより原は上京、3日間滞在。
又、富岡に帰り、I氏とともに東北へ、5月21日帰省、I氏と別れる。
6月27日分家。帰省。

原敬が上京して、キリスト教に関係した時期は3年近く、
東京半年、横浜一年、新潟一年余り。

キリスト教に頼ったのは、おそらく生活のため。
次第に深入りし、遂に受洗するまでに至り、同僚蔑視の中、
平然として洋夷の学僕となる。

原が、自分の力で将来を切り開いてゆこうとする性行が、
次第に明らかとなる時期。(評伝「原敬」上・山本四郎著)
この時期の後藤新平はどうであったか-。

◆明治7年 医学校入学

新平は、須賀川を修学の地としたが、
ここでも“ケンカ”をして二度目の水沢帰りを目指す。
前沢までやってきて足が止まり、再び須賀川へ戻る。

福島県立病院は、明治4年7月、白河県立病院として白河町に設立。
白河は病院として適地でなく、須賀川町に移したいと、
住民は宮原積県令に新築を求めた。

県令は、1000戸程度の町に病院は必要なしと許さず。
宮原県令に対抗し、町の人達、商人は権力に頼らずに
資金を出し合おうと基金を募り、2500円を集めた。

県令の異動があり、宮原県令は退職し、安場保和が着任。
明治6年4月、木造二階建て、総建坪350坪の新築の建物が完成、
付設の教育施設「医学校」も完成。
新平が須賀川に戻り、医学校に入学したのは明治7年2月。

病院新築とともに、横川正臣が初代院長を辞め、
二代目の塩谷退蔵が院長となり、医学校長を兼任。
塩谷は当時、学界きっての博識家。

[学校の課程]
四等 理学(物理) 化学(舎密学)
三等 解剖学 原生学(生理学)
二等 薬剤学 原病学(病理学)
一等 内外科学 臨床実験

課程は四段階だが、一段階終了ごとに試験を受けて次に進む。
入学してから1年、2年もして、学識、技術を習得すれば
助手に採用され、月給も支給される仕組み。
新平の進歩はめざましく、上級に進むが、卒業という記録はない。

須賀川医学校の寄宿舎には内舎、外舎の区別があった。
内舎は17歳から24、5歳までの普通の学生を収容。
外舎には、管内の開業医から再教育のため募集された
官費生が入っていた。

内舎の取り締まりの任に当たっていた舎長は人望がなく、
学校側は新平を任じた。
新平の抜群の学力と統率力を認めた。
前任の舎長は月10円。
阿川から毎月もらうのは3円、新平の心はおどった。
校長から渡された辞令には、月3円の給与と。
原敬も、共慣義塾の月謝・寄宿料が3円。

新平は、医学校の寄宿舎責任者の辞令を床にたたきつけた。
前任者の手当は10円、その三分の一以下。
前任者ができなかった寄宿舎改革の大任を
任せようとすることがおかしいと、新平は反発。

校長が、「そのうちに昇給するように取り計ろう」と
穏やかに言ったことで、新平は生徒取り締まりを受け入れた。
明治8年7月4日のこと。
2カ月後、5円に昇給、半年後、新平は外舎長も兼任し、月給は8円。
新平は得意になった。

http://www.iwanichi.co.jp/feature/gotou/item_11927.html

0 件のコメント: