2009年6月17日水曜日

特集:後藤新平の真髄06 医師・新平の第一歩

(岩手日日 2009年4月2日~)

明治5(1872)年、奥州街道の宿駅として、商業の町として
藩制時代の白河藩を支えたのが、須賀川町。
明治維新後、「白河以北一山百文」と、東北地方は薩長体制から蔑視。
後藤新平は、蔑視観の境界に身を置いた。
原敬は、その差別体制を屈服させようと俳号を「一山」とした。

原敬、後藤新平の身の置きどころに気脈が通ずるものがある。
二人は、明治4年に古里を後にし東京に出たが、
同じ年に新渡戸稲造も東京を目指した。
明治四年の「三人組」ということができよう。

明治4年7月、白河仮病院が開院、9月に西洋医学による
医師の養成を目的に、医術講義所も開設。
医術をめざす志のある人々が福島の内外から集まった。
戊辰戦争の激戦地だった白河での経営は苦しかった。

須賀川町は、強力な運動で病院を誘致し、福島県病院と称される。
一時私立となったが、県立須賀川病院となり、明治6(1873)年、
病院新築落成と同時に、福島県公立須賀川病院と改称。
医学所と寄宿舎も併せて新築。

明治7年2月、医学所に初めて7人の入学者を迎えた。
7人の初入学者のうちに、新平もいた。
彼は、県令安場保和の知遇を得て希望に燃えていた。

新平の医学所での学生生活は2年間。
明治7年3月、渋谷正信教授指導の下、
最初の死体解剖が医学所の医学生によって行われた。

新平は、明治8年7月4日、寄宿舎の舎長に任命。
明治9年3月、学生とは別に医師として再教育をめざす人達は、
寄宿舎生の外舎長と称していたが、兼任を命ぜられた。給は8円。
新平は、須賀川病院医学所の内舎、外舎の寄宿舎生全員の
取り締まりをすることに。

学校当局の思惑とは別に、20歳前後の若者が舎長づらをして
取り締まり責任者になったところで、家に帰れば妻子がある外舎生らは、
おいそれと言うことを聞くとは思われない。
年齢は30~40代。飲酒、遊興の悪習もある。

新平は、一同を集めて訓示をした。
「はからずも舎長を拝命したが、諸君の方が年長、思慮も分別もある。
会則とはいえ、監督することになったことは心苦しい。
が、ここに2冊の帳簿を持参した。
何もいわれなくとも、会則を守るものは、この方に姓名を書いてもらいたい。
意思が弱くして、会則を守れないという向きは、
甘んじて自分(新平)の別の一冊に署名してもらいたい」

新平は周囲を見回した。
外舎生の面々は、規則を守る自信がないと言って
帳面に署名するわけにゆかず、前者(規則を守る)に記入。
これで秩序が保たれた。
年長者も、新平の気魄に飲み込まれた。

◆解剖で外科医の力量発揮

平成6年秋。
ジョンズ・ホプキンス大学のイタリア・ボローニアセンターを視察。
ボローニア大学の計らいで、中世の解剖室を見学。
中央の台に死体が横たわり、死体が置かれた場所を
2階の映写室のような窓から監視する状景が見渡される歴史資料室。
中世のカトリック教徒が、いかに死体解剖に目を光らせていたか。

新平は、須賀川病院医学所で行った最初の死体解剖で、
外科医として力量を発揮、これなら学生らのリーダーになれると評価
舎生の取り締まり責任者に任命されたのは、
若い新平が統率力と胆識を見込まれる場面でも。

明治8(1875)年1月、須賀川医学所は須賀川医学講習所と改められ、
医学講習所は速成法を目的に、生徒入舎規則を改正。
舎生を内外に分け、内生は3年生ならびに志願者、学年を2年から3カ年。
費用は自弁である。
外生は開業医、6カ月を一期として修業。
1、2名に限って、漸次入舎させて学費を給した。

◆安場を慕い愛知県病院へ

新平は、福島県令安場保和が福島を去る日が近いことを察知していたか、
2年の学業の終りが近づいたころ、身の処し方を考えていた。
校長が彼を呼び、身の振り方を尋ねた。
新平は、「医学の門に入ってから2年しかたちません。まだ勉強したい。
それには開業するよりも、どこかの病院に勤めた方がいい」
校長は、「出羽の鶴岡県病院から、優秀な医官を推挙してほしいと…
月給は25円出すという」

医学校在学期には、新平の生活費は毎月3円。
鶴岡県病院からの招きに応ずれば、新平は貧乏生活から抜け出せる。
医者は引っ張りだこだった。
昔ながらの漢方医ならどこにもいる。
西洋医学を修めた新しい医者が不足。
須賀川医学校は、変則の速成課程だが、
優秀な成績で卒業することは誇るべき経歴。

鶴岡県病院から、新平が40円欲しいと要求したのに対し、
35円で我慢してとの返事があり、就職が決まった。
そこへ、東京の阿川光裕から新設の愛知県病院へ
月給10円で来ないかと勧誘。

安場は、新しく愛知県知事となった。
安場と阿川は、新平を手元に呼び、手腕を発揮させようというのだ。

35円と10円、新平は比較してみた。
熟慮して、10円を選択した。
「医は仁術」と言われている。
現代は、算術になり下がった医者が多いというが、
安場保和、阿川光裕の恩義は海より深しと考え、愛知県病院を選んだ。
医師・新平の第一歩である。

http://www.iwanichi.co.jp/feature/gotou/item_12155.html

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