2011年5月27日金曜日

スポーツを考える:坂上康博・一橋大教授(スポーツ史)

(毎日 5月7日)

東日本大震災は、日本のスポーツ、特にプロスポーツの社会における
位置や意味を改めて問い直し、その力強い存在感と同時に
不安定さもさらけ出したように思う。

震災後、スポーツをすることへの言い訳としか思えないような
スポーツ選手の発言や戸惑いの声があちこちで聞かれた。
自分たちがやっていることの社会的な意味や役割について、
十分な自覚や自信がないように思える。

日本でプロフェッショナリズムが本当に認知され始めたのは、
1993年にJリーグが誕生してから。
アスリートが、社会的に意味のある職業として認められるように
なったのは最近のこと。
自分の能力を生かして、お金を稼ぐことは音楽にしても絵画にしても
当たり前なのに、スポーツは許されないという雰囲気が
90年代後半まであった。

今回の対応を見ると、スポーツに打ち込んでプロフェッショナルで
生きていくことの自信のなさ、後ろめたさをまだ引きずっているようだ。

サッカーのワールドカップの決勝は、十数億人が同時に観戦する。
人を引き付けるという点で、スポーツほど強い力を持つ文化は見当たらない。
分かりやすさ、単純さが持っている力は、言葉の壁を越える。
世界共通語と言われるゆえん。

ピカソの絵のよさを理解できる人は限られるが、
スポーツのすごさは見ただけでほとんどの人が分かる。

息を切らして全力で走ることを繰り返す姿を通して、
スポーツは最後まであきらめないとか、
頑張るということを極めて具体的に見せる。

うそが通用しない、ごまかしが利かない世界がスポーツ。
頑張ることを身体で示しながら、それとセットで発せられる言葉は、
大きな迫力を持つ。
身体性を持ち、政治家の発する「頑張ろう」とは重みが違う。

開幕戦で決勝本塁打を放った楽天の嶋選手は、
「東北のみなさんの気持ちが打球に乗って、本塁打になったと思う」と言った。
後付けの言葉だが、ファンはたまらない。
ドラマ以上にドラマチックな結果。
その感動をもたらすのが、スポーツの力の一つだろう。

メディアによる、スポーツの「感動キャンペーン」の背景にあるのは、
感動や涙に対しての社会全体の飢餓状態。
日本は、この20年間ほど経済不況に見舞われ、元気や自信を失い、
プライドや誇りと思えるようなものがなかなか見つからない。

ワールドカップでの日本代表の活躍にのめり込み、
「ニッポン」と叫ぶ若者たちの姿も、そんな状況とセットで理解すべき。

普段は見えない社会の深層や人々の心理に光を当てることが
できるのが、スポーツ研究のだいご味。
その面白さと大切さを知ってほしい。
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◇さかうえ・やすひろ

1959年生まれ。高知大卒。
著書に「権力装置としてのスポーツ」、「にっぽん野球の系譜学」、
「幻の東京オリンピックとその時代」(共編著)など。

http://mainichi.jp/enta/sports/general/general/archive/news/2011/05/07/20110507dde007070047000c.html

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