2011年6月1日水曜日

「危機の時代だから、土光さんを語りたい」 「メードバイJAPAN」第4部(1)

(日経 2011/5/31)

日本の製造業は戦後、石油ショックを皮切りとする幾多の危機を
乗り越え、そのたびに強くなってきた。
東日本大震災でも、多くの企業が被災し、窮地に陥っている。
過去の「ニッポン神話」を再現し、復活に向けて歩き出すために今、
何が求められているのだろうか?

◆「財界の巨人」土光敏夫氏

IHI(旧石川島播磨重工業)を貫く、故土光敏夫氏の経営哲学を紹介。
土光氏は、石川島重工業の社長、東芝社長などを歴任、
「財界総理」ともいわれる経済団体連合会(経団連)会長を務めた。
働く人々の力を最大限に生かし切る経営のスタイルは、
今の日本でも輝きを放っている。

震災で大きな打撃を受けながら、奇跡的な復活を遂げたIHIの相馬工場。
民間航空機エンジン部品では、世界屈指の大型拠点。
同工場は相馬市にあり、東京電力福島第1原子力発電所から40km余り。

震災で鋳造などの主要設備が壊れ、当初は「復旧まで半年は必要」だったが、
女性パートを含む1500人の従業員たちの執念によって、2カ月で復旧。

世界の航空業界関係者も、IHI相馬工場の早期復旧を心から喜んだ。
同工場は、米ゼネラル・エレクトリック(GE)の主力エンジンの多くに
使われている低圧タービンのブレードを独占供給。

GEは、民間航空機エンジンで世界シェア50%。
相馬工場の稼働が遅れれば、世界の航空機の運航にも支障が。

相馬工場は、「世界で最も生産性の高いエンジン部品工場」
大震災を乗り越え、現場の知恵を生かし、今後も技術力と生産性に
磨きをかけようとしている。
経営者の決断と、正社員もパートも区別なく生き生きと働く現場力。
そこには、日本企業の多くが学ぶべき経営のヒントがある。

◆人間尊重こそ、土光イズムの原点

IHIの相馬工場は、土光氏が航空機エンジン事業への参入を
決断したことで発足。

土光氏は1950年、IHIの前身、石川島重工業の社長に就任。
その後、経営危機に陥った東芝の再建社長。
74年、経団連会長として「財界総理」となり、80年代には行革に尽力。
88年に亡くなるまで、働きづめの日々。

作家の故城山三郎氏は、土光氏の生き様を、
「一瞬、一瞬にすべてを懸ける、という生き方の迫力」と表現。
最も好きだった言葉も、「日新、日日新(日新た、日々新たなり)」。
「毎日、毎日が新しい日で、1日1日を全力を投入して生きていく」という意。

IHI相馬工場には、土光氏の哲学が受け継がれ、今も生産革新で
世界の先頭を走り続けている。
経営者・土光敏夫氏の足跡を、IHIの釜和明社長と長男である
土光陽一郎氏のコメントを紹介。

◆土光さんは「決断の人」

「私は、1971年入社。財務部門に配属。
65年、東芝社長に就かれた土光さんと個人的な面識はない。
当時も、土光さんの薫陶を受けた先輩が財務部門にいて、
土光さんのすごさを感じていた。

驚くべきことは、決断力。
航空機エンジン事業への参入も、ブラジルでの造船所の建設も、
今の時代の経営者が、これほど難しい決断ができたか?
入社時、財務部門の同期は9人も。
土光さんが、59年に決断したブラジルの造船所事業に加え、
他の海外造船所もあり、若い財務・経理の担当者を派遣する
必要があった」(釜社長談)

土光氏は、まさに「決断の人」。
猛烈な勉強家でもあり、米GEなど海外企業の経営を学んでいた。
米経営学者、ドラッカー氏の著書もよく読んでいた。

ドラッカー氏の言葉を引用してよく語っていたのは、
「勇者は1度だけしか死なないが、臆病者は1000回も
見苦しい死に方をする」。
なかなか決定を下せずに、書類を山積みにしているような
会社幹部に対する痛烈な批判。

社長として、航空機エンジン事業への本格参入を決めた。
朝鮮戦争(50~53年)後で、日本でも防衛力の整備が必要。
戦闘機エンジンを国内生産する必要があったが、
航空機の中でも、戦闘機のエンジンは技術的に極めて難易度が高い。

土光氏は参入を決断、57年、東京都に田無工場を建設。
社員を集めた総会を開き、土光氏は、「この航空機エンジン事業に、
石川島の社運を賭ける」と、拳で机を殴りつけながら熱弁を振るった。
その拳が、血で真っ赤に染まったのは有名。

ほぼ同じ時期に検討していたブラジルの造船所事業も、
「狂気の沙汰」と言われた。
82年1月、日本経済新聞「私の履歴書」の中で、
「ブラジル進出は、リスクが大きすぎ、狂気の沙汰という意見が多かった。
私は反対意見を、『すべて責任は私が負う』として押し切り、
(昭和)33年1月8日、ブラジル関係当局と協議し、議定書の調印を行った」

石川島ブラジル造船所は、58年に開業。
土光氏は、日本から100人を超える技術者を現地に、
「骨を埋めて来い」と送り込んだ。
当初800人だった従業員は、3300人までに増え、
石川島重工は投資を回収し、多額の利益も生み出した。

最終的には、激しいインフレによるブラジル経済の悪化で撤退するが、
海外でのノウハウを蓄え、シンガポールでも造船所を成功。
60年代後半、世界の造船業界でトップに躍り出る。

◆「逃げ隠れもせず」が土光さんの教え

「IHIの業績は、平成に入ってから長い間伸び悩み。
私が社長になったのが、2007年。
その年、(プラント事業などの損失計上による)業績の大幅な下方修正。
突然のことで、先輩たちからも『何をやっているのだ』と叱咤。
下方修正の時、本当に経営者としてつらい時期。
IHIの株式が、特設注意市場銘柄に指定され、
株主のみなさんにも、取引先の金融機関にも迷惑をかけた。

私は、この危機を乗り切るため、従業員の心を一つにしたい、と。
逃げも隠れもせずに、どこにでも行って説明した。
土光さんから学んだこと。
何よりも社員を大切にすること、経営者として自分を律することの大切さ。

現代の経営者は、決断力がないというより、
非常に複雑な時代だから決断が難しい。
右肩上がりの成長を期待できるわけでもないし、
株主を含めて利害関係が複雑。
危機の時代だからこそ、土光さんから学び、語りたい。
経営者として、決めるべきことはたくさんある」(釜社長談)

IHIはこの10年間、業績の低迷が続いていた。
電力用ボイラーなど、エネルギー関連や造船といった柱となる事業が不振。
2007年秋、業績の大幅な下方修正を発表、赤字に転落。
海外のプラント建設といった事業部門で、適正なコスト管理ができなかった。
問題が起きた時期、社長を務めていた当時の伊藤源嗣会長は辞任。

マスコミから、「(財務担当役員だった)釜社長は知っていたはず」、
釜社長もいつ辞任に追い込まれるのか、と。
釜社長は、そこで踏みとどまり、立て直しに奔走。
11年3月期、純利益が過去最高に。

業績回復を支えた功労者は、釜社長が業績下方修正の後に
子会社から呼び戻し、エネルギー・プラント事業の採算性を
劇的に改善させた橋本伊智郎副社長。
釜社長の決断による、IHIでは異例ともいえる抜てき人事が奏功した。

◆大震災での被害から奇跡の復旧

「3月11日、東日本大震災で相馬工場は大きな打撃を受けた。
この工場は、土光さんが参入を決断した航空機エンジン事業の中核拠点。
1957年、田無事業所を建設してから半世紀が過ぎ、
IHIの航空機事業は3000億円規模に。

地震から1カ月し、相馬工場に行った。
その時に思ったのは、工場の従業員の明るさ。
土光さんの時代から、現場が生き生きと働くという風土がある。
パートを含め、従業員を非常に大切にする。

相馬工場が最初に稼働した10年前ぐらいは、だいたい200人。
当時の副社長は、2000人が働く工場になると。
『本当かなあ』と思ったが、今では1500人以上に増えている。
従業員たちが、寝食を忘れて復旧に没頭してくれた。

先輩から、『土光さんの理念を忘れないように』と。
土光さんといえば、『メザシの土光さん』というイメージしか知らない社員も。
経営者として語り継ぎ、その理念を受け継ぐことが大きな仕事。

特に好きな言葉は、『日々新たなり』。
社員が日々、仕事に全力投球するような会社であれば、
厳しい時代も乗り切れる」(釜社長談)

◆「重い荷物を背負えば、人が育つ」

もう1人、土光氏の人物像や生き方、経営スタイルを知るための
エピソードを証言をしてくれる人物。
土光敏夫氏の長男である土光陽一郎氏(85)。

石川島重工業で、航空機エンジンの技術者として活躍、
主力拠点の田無工場長などの要職を歴任。
子供のころから、家では仕事のことを語らない父。
同じ会社でも、顔を合わせる機会は公私ともにほとんどなかった。
家では、無口な父の背中から、陽一郎氏は何を感じたのか?

「私が小さいころ、親父は仕事ばかりで、ほとんど家に帰ってこない。
父は、大正9(1920)年、石川島芝浦タービンに入り、機関設計を担当。
スイスのタービン会社のエッシャーウイス社に留学、
タービン技術者として仕事ばかりしていた。

父から、ほとんど何も言われなかった。
覚えているのは、埼玉のお菓子『五家宝』をよく買ってきてれた。
親父が、心血を注いだ秩父セメントの仕事だったのかと」(陽一郎氏談)

土光敏夫氏が、タービン技術者として名をとどろかせたのが、
秩父セメント向けの発電用蒸気タービンの受注。
昭和4年(29年)当時、日本の大手企業は、GEなど外国製タービンを購入。
秩父セメントに売り込んだ時、「国産だからダメだ」と断られた。

頭にきた土光氏は、「欠陥があれば、引き取りましょう」と約束。
秩父セメントの工場に何度も泊まり込み、このタービンの受注を成功、
石川島はタービンで飛躍する契機に。
「国産はダメ」という常識を覆したのは、土光氏の執念。

「私は戦後、すぐに親父が働いていた石川島芝浦タービンの
親会社である石川島造船所に入り、舶用タービンを設計。
親父とも、仕事についてはほとんど話さない。

親父が、50年に社長としてやってきた。
会社で会わず、家からも独立して、会話を交わすことはほとんどない。
その後、私は航空機エンジンの設計に携わる。

53年、日本でも航空機の生産が再開。
私も、業界各社が出資する開発会社へ。
57年、石川島重工業が航空機エンジンの田無工場を作り、
そこですごい人たちと一緒に仕事をする。
その多くは、親父が集めてきた人たち。

最も有名なのは、初代の航空宇宙本部長となる永野治さん。
工場は、戦前の海軍で活躍した技術者ばかりで、
失敗を恐れない雰囲気に満ちていた。
若手にどんどん重い責任を与えて、仕事をやらせる。
そして、人材が育っていく。

航空機エンジンの開発は難しい。
設計も試運転も仕事がたくさんあるから、どんどん人が増え、
活気にあふれていた。
入社して2~3年でも、難しい設計の仕事を任された。
それは、親父の経営理念も影響していることが後で良く分かった」(陽一郎氏談)

土光敏夫氏の有名な言葉に、「重荷主義で育てよ」。
若いうちから、能力を上回るような仕事を与えてこそ人材が育つ。
そして、「少数精鋭」の意味。

土光流解釈では、「少数だから精鋭が育つ」のである。
責任のある仕事を任せてこそ、本当に優秀な人材が育つ。

田無工場が象徴的なケース。
土光氏は、同工場の建設で大きな決断をしたが、
すべては事業部に任せた。
投資額が大きいため、赤字事業だったが、多くの人材を学歴などに
関係なく採用できるように社長として後押し。
現場の生産担当者を含め、誰もが寝食を忘れて仕事に没頭。
土光氏の、現場に任せ、人を育てることを最優先した経営があった。

◆試練があれば、逆に燃えた父

親父の生き様を返ると、仕事ばかりの人生。
小さい頃のことは、日帰りで日光に行ったことと、
会社の旅行で1泊2日で河口湖に行ったことぐらい。
家では書斎に閉じこもっていた。
いない時に入ってみると、ドイツ語や英語の技術専門書ばかり。
英語の技術雑誌「エンジニア」が、たくさんあった。

そこで何を思っていたのか?
私は終戦直後に大学を卒業したから、就職先などない。
親父が石川島にしろ、と。
就職し、親父と同じ機関設計課に配属、
その後は航空機エンジンの設計をしていた。
週末に子供を連れ、横浜市鶴見の実家に行っても、
ほとんど仕事の話はしない。

私のことでいえば、田無の工場長だった永野さんから、
仕事ぶりについては聞いていたが、褒めてもくれないし、叱ったりもしない。
私の母から聞いていて、安心していたのかも。
日経新聞の『私の履歴書』で、私が技術者としての仕事を選んだことを
喜んでいる記述があり、うれしかった。

親父が今生きていたら、今の日本をどう思ったか?

今回の大震災も、天が与えた試練。
この試練を乗り越えなければならない。
親父であれば、間違いなく前向きですから。
試練があれば、それを乗り越えるために必死で働く。
部下を励まし、部下を育てて、先頭に立って動いていると思う」(陽一郎氏談)

http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C889DE0EBE6E4E6E0E2E2E1E2E2E7E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2?n_cid=TW001

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