2010年6月27日日曜日

五輪招致(1)僕は五輪に育てられた スケルトン・越

(読売 6月15日)

だれにでも、思い出の五輪がある――。

新幹線や高速道路が整備され、国民生活が豊かになった以上に、
五輪は多くの人々の心に喜びや希望を与えてきた。
五輪を開催すること、そして五輪招致に力を注ぐことは、
日本のスポーツ界にどんな貢献をしてきたのだろうか?

「スパイラルがなかったら、僕は違った人生だっただろうなあ……」
長野市営ボブスレー・リュージュパーク、通称スパイラル。
新緑に包まれた施設を見上げながら、
スケルトン競技の第一人者だった越和宏は目を細めた。

1998年長野五輪に向け、総工費約100億円が投じられ、
大会の2年前に完成。
現在、国際競技で使用が認められているアジア唯一のソリ会場。

2002年ソルトレーク五輪から3大会連続出場を誇る越だが、
最も興奮した“五輪”は、8位入賞したソルトレークでも、
最後の滑降となったバンクーバーでもない。
スケルトンが正式競技ではなかった長野五輪で、
ボブスレー競技の前走として、このスパイラルを滑ったこと。

「人、人、人。観衆が周囲をぎっしり埋めていて、滑走者と一緒に、
大歓声が上から下へとウエーブしていった」

施設ができるまで、日本のソリ競技、特に五輪から外れていた
スケルトンはお寒い状況。

1972年札幌五輪で使われた手稲山の会場は、
施設維持の困難さからコースが短縮。
練習したくても、国内では難しい。
ビデオや写真で滑るシーンをイメージし、
費用を工面して海外遠征し、年に数本滑るのが精いっぱい。

スパイラルが完成する前の競技人口は「4、5人」
うつぶせになって滑り降りるスタイルを見て、
「リュージュの選手が転倒したまま滑っている」と勘違いした観客も。

スパイラルが誕生し、ソリ競技全体の知名度が広がり、
スケルトンの競技人口も増えていく。

長野五輪直前の97年に開催された第1回全日本選手権の
出場者は11人、1年後の第2回は30人。
草レースも行われ、全日本に女子の部も設けられた。

99年、スケルトンの五輪復帰が正式決定。
スパイラルで開かれた国内初のワールドカップ(W杯)では、
越が初優勝を果たす。
ソリ競技で、日本人初の快挙。

表彰台の真ん中で笑顔をみせる越は、
「ゼロからここまで来られた」

今、スパイラルを巡る状況は厳しい。
人工冷却装置などを完備した施設の維持管理に、年間2億円近く。
使用料収入は、1000万円に達しない。
存続問題も何度か浮上。

2007年、JOCのナショナルトレーニングセンター(NTC)に指定、
運営費の半分が国から補助。
危ぶまれていたバンクーバー五輪後も、継続が決まった。

越は力を込める。
「つぶすのは簡単。継続させるのは難しい。
でも、それが、五輪を開いた国の責任でしょう」

ユーゴ紛争で荒廃した1984年サラエボ五輪の
ソリ会場の姿が目に浮かぶ。
行政に求めるだけでなく、選手や現場が動かなければ
ならないことは承知している。
「ここは春になると、たくさんの菜の花が咲いて、きれいなんです。
夏のイベントも考えたい」

スパイラル完成から14年。
ソリ競技の体験会に来ていた地元の小学生が、
五輪代表になるまでになった。
マイナーといわれようと、日本のソリ競技の灯を守り続けてくれた
施設に感謝を込めて――。
競技の第一線を退いた45歳は、普及という新たな使命に挑む。

◆陸上、谷口浩美 「国立」は聖地

1964年の東京五輪。
国家規模の大イベントは、首都のスポーツ環境を一変。
国立競技場、代々木体育館、日本武道館――。

国立競技場は、50年以上にわたり、大舞台として
名場面を見守り、選手を育ててきた。

国立競技場で44年間芝の管理を担当し、今春退職した
鈴木憲美は、81年のサッカー第1回トヨタカップで来日した
ノッティンガム・フォレスト(イングランド)の
ブライアン・クラフ監督の一言が忘れられない。

前日練習を終えた監督は、わざわざ鈴木を呼び、こう聞いた。
「おい、あすのゲームはどこでやるんだ」

欧州では、冬でも目に鮮やかな緑色の芝で試合が行われる。
当時、国内では、グラウンドの芝は冬は枯れるのが当たり前。
白い枯れ芝、風が吹くと砂が舞う環境で、
クラブ世界一を決めなければならない。
毒舌家で知られる指揮官が、鈴木に皮肉を言った。

鈴木は、この一言に発奮。
試行錯誤を重ねた末、91年に二毛作を導入、
冬でも青々とした芝を実現させた。
以後、この方式が全国に広がっていく。

サッカーの競技力向上に、状態のいい芝は欠かせない。
「オレもちょっとは、日本サッカーの進歩に貢献したと思うよ」
働き始めた当時、サッカーに全く興味がなかった鈴木は、
岡田ジャパンの応援ツアーで南アフリカに向かう。

91年、猛暑の世界陸上男子マラソンで、最初に国立競技場に
帰ってきた谷口浩美
「僕ら陸上選手にとって、国立は“聖地”。
高校時代、国立で走ることを目標に頑張った」

レース当日の朝5時。
世界陸上に向けて改装されたスタンドを見上げた谷口は、
「きれいになったな」と思った。
マラソン後に行われた閉会式では、谷口の優勝をたたえ、
場内に何度もウエーブが起こった。

「国立競技場のような目標をもたない、今の選手は気の毒」
現役時代の走りと同様、淡々と、だが、確かな口調で言い切った。

◆2016年東京五輪招致委事務総長を務めた 河野一郎氏

――五輪の招致活動は、スポーツと国のあり方に、
どんな形でかかわれるか?

「2016年五輪招致を通じて感じたのは、今、国の方向性を
議論する機会がなかなかないこと。
五輪招致を論じることで、スポーツはどんな働きをしているのか、
招致がどう役立つのかなど、議論のきっかけになる

――具体的には?

「五輪招致で必ず出てくるのが、『国威発揚』は必要ないと反対する人。
もうそういう時代じゃない。
考えたのは、国のプレステージ、品格を上げること。
バンクーバー五輪は、複数の言語、人種を抱えるカナダ国民が、
自分の立ち位置を確かめ、国にプライドを持つことに役立った」

――そういう議論が足りなかった?

「競技力向上など、スポーツ界だけの話や実利面の話だけだと、
議論はずれてくる。
日本は『品』を持ち、『格』を上げていくこと。
こうあるべきという柱があって、その先に競技力向上など、
実利をみるならば、生きる」

――教育に及ぼす効果も大きい。

子供たちが一番正直。
(選手を見て)ああなりたいなと思って球をけったり、泳ぎ始めたりする。
競技スポーツが、国民スポーツを引っ張る意識を持たないと」

――五輪が日本を変えるきっかけになるか?

「なりますよ。
五輪くらい、大きなきっかけになりうるムーブメントはない。
五輪以外に、年代や立場を超えて、
一体感がないと達成できないものはない」

◆日本の過去の五輪招致

日本は、戦前戦後を通じて五輪に10回立候補、4回、招致に成功。
1940年、東京と札幌の夏冬開催が決まりながら戦争により返上、
五輪自体も行われなかった。
64年東京、72年札幌、98年長野と夏季1回、冬季2回開催。
東京、札幌は、ともに2度目の挑戦で招致を勝ち取った。

札幌は、84年冬季大会にも立候補、サラエボに敗れている。
88年夏季大会は、名古屋がソウルに、2008年夏季大会は
大阪が北京に、16年夏季大会は東京がリオデジャネイロに敗れた。

http://www.yomiuri.co.jp/sports/feature/rikkoku/ri20100615_01.htm

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