2011年6月11日土曜日

スポーツを考える:有元健・社会学者

(毎日 5月21日)

言葉がどういう意味を持つかが、時代によって変わるように、
スポーツの定義も変わる。

いつの時代にも、スポーツというものを、ある方法で語りたい、
考えたいという社会の要求、さまざまなレベルでの要請がある。

今なぜ、スポーツは元々遊びであり、気晴らしでありと
言われているのか?
戦前、スポーツは体育に取り込まれ、ナショナリズムやファシズムと
結びついた歴史がある。
戦後、それを切り離したいという思いが非常に強く、
今も皆そう思い込んでいる。
そういう意味で、今は健全な時代と言えるかもしれない。

スポーツは何なのかという本質論よりも、
社会の中で、政治や経済、文化などと、なぜ結びついたのか、
どのように結びついたかを考察する作業が必要。

スポーツの商業化につれ、この20年ほどでアスリートの社会的な
意味合いは大きく変わってきている。
80年代後半以降、日常生活の中にスポーツのロゴが浸透。
一部のアスリートは、今やメディアヒーローであり、社会的なセレブに。

今回の大震災では、獲得賞金を義援金として寄付したり、
海外でチャリティーマッチを開催したりすることで、
彼らの良質なパブリックイメージが維持されていくという側面。

震災以降、「がんばろう日本」や「日本人は頑張れる」という
言葉があふれている。
「私たち日本人」という概念は非常にあいまい。
本来不安定なその枠組みは、「日本人」が同質的なものだと
繰り返し語られることによって維持。
スポーツのメディア報道もそうだし、それをネタに僕たちが
居酒屋で語り合うのも、そうした行為。
スポーツは、こうして排他的なナショナリズムと結びつく可能性がある。

サッカー日本代表の強みは「組織力」となっていて、
「日本人は器用だ」が、その前提。
その時の「日本人」とは誰なのか?
ある種の同質的な身体的特徴を持った日本人観が前提。
スポーツを巡る語りの中に誰を入れて、誰を入れないのか?

スポーツ以外の分野で、「私たち日本人は」とか「日本人ってこうなんだ」と
語る場面はあまりないのではないか。
スポーツを考えることが重要なのは、それが国民の概念を
身体的に定義する言葉を提供するから。

スポーツ選手が発する言葉は、今の社会の状況では有効で、必要。
歴史を見れば、全く違った接続をされる可能性があることが分かる。

スポーツは、どっちにも転ぶ。
そこへの注視を怠ってはいけない。
それが、「スポーツを考える」ということにつながっていくと思う。
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◇ありもと・たけし

1969年生まれ。ロンドン大ゴールドスミス校社会学部博士課程修了。
社会学博士。専門はカルチュラル・スタディーズ。
著書に「サッカーの詩学と政治学」(共編著)など。
桐蔭横浜大特任助教。

http://mainichi.jp/enta/sports/general/general/archive/news/2011/05/21/20110521dde007070063000c.html

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