2009年3月17日火曜日

人間弾圧の象徴、復元を 」「ハンセン病重監房」

(2009年3月9日 共同通信社)

足元にある食事の差し入れ口から、骨と皮だけの手が突き出ていた。
それが右に左に泳ぐ。
しゃがんで声をかけた。「飯だよ。早く引っ込めて」、「あぁ?」
独房から男の声がして、一瞬、手の動きが止まった。
だが、また宙をさまよう。「早くしなよ。飯なんだから」、「わあぁ」
今度は奇声になった。
「放っておけッ」。後ろにいた看守が怒鳴る。
「飯なんかやらなくていい。次の房へ行け」

群馬県草津町の国立ハンセン病療養所「栗生楽泉園」にあった
患者の監禁施設、通称「重監房」。
入園者の鈴木幸次(85)は、太平洋戦争末期の数カ月間、食事を運んだ。
「翌日、給食係に行くと1人分減っていた。死んだんだよ」
60年以上過ぎても忘れない。「人間に対する扱いじゃねぇよ」

▽医療はせず

標高1、200メートルの草津高原。
温泉街から3キロほどの森の中、約360平方メートルの広さに
重監房の礎石が残る。正式名称は「特別病室」。

だが、医療が行われた形跡はない。
鈴木らの証言では、コンクリートで造られ、高さ約4メートル、
中には独居房が8つあった。
入り口から鉄の扉を4、5枚開けて、ようやく房にたどり着く。
通路には屋根がない。
冬の寒さは厳しく、氷点下20度近くまで下がり、積雪も深かった。
4畳半ほどの広さの房には、暖房も照明もなく、
縦約10センチ、横約80センチの素通しの窓が唯一の明かり。

食事は、午前8時半と午後2時半の2回。
地面から30センチの高さの差し入れ口を通して渡した。
じゃがいもや大根を混ぜて炊いた麦飯一膳ぐらいに、梅干しやたくあん。
器に盛るのではなく、木の箱にそのまま載せた。

重監房が使われたのは、1938-47年の9年間。
この間、92人が収監され、14人が"獄死"、8人が出所後に死亡。
その記録が正確かどうか。「そんな数じゃすまない」。鈴木は言下に否定。
収監者を外に出し、風呂に入れるのを見たことがある。
「おばけだった。やせすぎて浮いてくるから、係の人が湯に押し込んでいた」

▽責任問わず

ハンセン病患者を隔離する法律が制定されたのは、1907年。
医学的根拠はなかった。
患者の不満が高まり、逃走や反発が増えると、政府は弾圧を強め、
監禁などの懲戒権限を各所長に与えた。

新潟大医学部准教授の宮坂道夫(44)(医療倫理学)は、
「欧米諸国に並ぼうと、近代国家を目指した日本にとって、
ハンセン病は後進性の象徴だった

患者は"国辱"として隠ぺい、排除された。
「隔離ばかりか、強制労働、懲罰制度にも、
誰も疑問を抱かないほど人権意識がなかった」
近代国家をアピールするつもりで露呈したのは、皮肉にも後進性だった。

実家の農作業で一時療養所を抜け出したり、
賭けをして遊んだりした人たちが、全国の療養所から重監房に送られた。
「草津送りにするぞ」。
職員がこの一言を発すると、患者たちは何も言えなくなった。

重監房は戦後、楽泉園入園者が待遇改善を求めた
47年の"人権闘争"で使用中止に。
人道問題として国会で取り上げられ、調査もされたが、
設置や運営の責任が問われることはなかった。
53年に取り壊されたとされるが、確かな記録さえない。

▽続いた隔離

特効薬の投与が始まった戦後も、「公共の福祉」の名の下に隔離は続く。
開始から90年、強制隔離は96年に終止符を打った。
2001年、熊本地裁が隔離政策の違憲性を認める。
歴史は、ようやく正しく流れ始めた。

東京都東村山市の多磨全生園入園者自治会長佐川修(78)は、
「判決以降、社会が関心を持ち、回復者が自由に発言できる環境ができた」
「重監房は、日本のアウシュビッツだ」
楽泉園入園者自治会副会長のこだま・ゆうじ(76)は、
ナチス・ドイツによるユダヤ人強制収容所になぞらえ、
人権弾圧の象徴として復元を求めている。

宮坂は02年、新潟大に谺を招き講演会を開催、その主張に共鳴。
「栗生楽泉園・重監房の復元を求める会」を設立、
10万人以上の署名を集めて04年6月、厚生労働省に提出。
同省は、08年から復元に向けて調査を始めている。

公立の療養所が設立され、今年で100年。
55年に1万人を超えた入所者は全国15施設で約2700人に減り、
平均年齢は80歳近くなった。
4月、ハンセン病問題基本法が施行、療養所の一般開放も目前に迫る。

楽泉園の自治会は今、1000ページを超える「証言集」を編んでいる。
鈴木は、重監房の話を含め10時間以上、体験を証言。
人間として扱われず、死んでいった仲間たち。
「重監房の体験を、人権教育の基礎にしてほしい」
記憶を語る鈴木のほおを、涙が伝った。

※報道の使命

皮膚などが侵されるが、感染力は極めて弱く、致死性もないハンセン病。
日本は隔離を徹底するため、医療従事者が患者に懲罰を与えるという
海外に例のない制度。断種や堕胎も強要。
患者撲滅の政策が、10年前まで存続していたこと、
おかしさに、患者以外はほとんど気付かなかったことに驚き、がくぜんとした。

多くの国民が無関心に陥ったとき、権力の暴力は見過ごされ、正当化される。
「知る」ことは、権利ではなく市民の義務。
雪の降りしきる重監房の跡地で、報道の使命を自分に問いかけた。
目を閉じ、60年以上前の悲しい情景を思い浮かべる。
冷たい風が音を立てていた。

http://www.m3.com/news/GENERAL/2009/3/9/93345/

0 件のコメント: