2009年10月5日月曜日

【五輪遠く】(上)すべて後手…外交力の限界を露呈

(産経 2009.10.3)

落選後の石原慎太郎都知事の言葉は、
日本のスポーツ外交に突きつけられた皮肉とも受け取れた。

「誰に聞いても、東京のプレゼンテーションは
圧倒的に良かったと言う。
だけど、結果はリオに決まった。
そういう(IOCの)力学をもっと勉強しなければならない」

招致演説や開催計画がどんなによくても、
IOC委員106人に対するロビー活動を展開しなければ、
票には結びつかない。
リオデジャネイロの招致委会長のヌズマン氏はIOC委員でもあり、
その肩書きを生かした人脈をフル活用したのとは対照的。

かつての日本には、IOCに顔の利く人物がいた。
JOC元会長の堤義明氏
サマランチ前IOC会長との親交は有名で、
98年長野冬季五輪招致では、スイス・ローザンヌに
五輪博物館を建設したいサマランチ氏の意向に沿い、
日本からの寄付のとりまとめを約束。
「ピンポン外交」に尽くした国際卓球連盟の
故・荻村伊智朗元会長も、国際スポーツ人脈に長けた1人。

「自分がIJF(国際柔道連盟)理事なら、1年の3分の1が海外。
もっと幅広い活動ができたのに…」
こう肩を落としたのは、柔道金メダリストの山下泰裕氏
2年前のIJF理事選に完敗。
「柔道の母国」といえども、発言力は衰えている。

日本スポーツ界のこうした状況が、
「情報戦」において後手に回る遠因。

マイナス要因としてつきまとった開催支持率の低さも一例で、
招致委はIOCが実施した支持率調査の時期を読み違えていた。
ある招致委関係者は、「3月ごろだと予想していた」、
招致本部幹部は、「招致委は4月以降と予測していたはず」
過去の例から、現地調査の2カ月前の2月に行われるとの予測も。
実際には2月に実施、「この読み間違いがなければ、
支持率はもっと上げられていた」。後の祭りとなった。

東京の戦略のミスも。
招致委から招致大使に任命された山下氏の述懐。
「海外でIOC委員に会った際、
『私と会ったことは、あなたのスケジュール帳から削除してくれ』と。
招致大使になったがために、IOCの招致ルールに抵触しかねず、
個人的な動きが制約されてしまった」

9月、中南米を訪問したJOCの福田富昭副会長は、
帰国後、表情をゆがめて、
「どこへ行ってもリオが先取りしている。厳しい戦いだ」と漏らした。
前回敗退の経験を踏まえ、「南米初」という大義を掲げて
精力的にロビー活動を展開したリオ。

ルラ大統領は、「ブラジルは、GDP世界10位の経済国。
五輪を開催する準備は出来ている」と訴えた。
昨年の北京、14年のソチ(ロシア)に続き、
ブラジルが五輪開催権を手にした。
「BRICs」新興国の台頭に比べ、日本の存在感は低下している。
    ◇
IOC総会で、2016年夏季五輪の開催地は、
「南米での初開催」を掲げるリオデジャネイロに決まった。
東京は2回目の投票で敗れ、1964年五輪以来、
2度目の開催は実現しなかった。
日本は名古屋、大阪、東京と大都市で3連敗。

「スポーツの外交力」の限界を露呈した形で、
五輪開催は遠のくばかり。
招致から見えた日本の敗因と課題を探る。

http://sankei.jp.msn.com/sports/other/091003/oth0910032350110-n1.htm

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