2011年6月18日土曜日

緊急連載 学校と震災(13)安置所で教え子と対面

(読売 4月14日)

大震災から12日が過ぎた3月23日午後。
宮城県東松島市立大曲小学校の教員たちは、
市内の遺体安置所にいた。

掲示板の前に行き、収容された遺体の性別や身長、服装などが記された
一覧表をじっと見つめている。
同小の児童らしき子どもがいれば、安置所の担当者に教員であることを話し、
中に入って本人かどうかを確認。

自分のクラスの児童2人が行方不明だった高田景子教諭(32)は、
「子どもが奇跡的に無事で発見されてほしいと思う気持ちと、
駄目かもしれないという気持ちが入り交じり、
とても落ち着いていられない。
家族と一緒に、私たちも子どもを捜してあげなければ」と、
涙をこらえながら話した。

3月11日午後、巨大地震の発生当時、同小の児童は教室に。
教員らは、災害マニュアル通り、保護者が学校に迎えに来た順に
子どもを引き渡し、帰宅させた。
その直後、大津波が同小を襲った。
学区内には海に近い地域もあり、
多くの児童が家族と逃げる途中、津波にのみ込まれた。

地震の翌日、電話などの通信機器はまだ使えず、
児童数424人のうち、約100人の安否が確認できなかった。

「子どもの安否確認は学校の役目」
熱海隆一校長(60)(3月末で退職)の判断で、教員らは数班に分かれ、
各避難所を徒歩や自転車で回り始めた。
「大曲小の子どもを知りませんか」と聞き、情報を集めた。

地震から10日過ぎても、行方不明の子どもが4人いた。
市街地の6割以上が浸水した上、沿岸など広域で水が引かない
状態が続き、遺体の捜索も難航。
22日からは、行方不明の子どものクラス担任らが中心となり、
最悪の事態も考え、遺体安置所も回り始めた。

高田教諭は31日、行方不明だったクラスの男児と、遺体安置所で対面。
あの日着ていたジャンパー姿で見つかった男児に、
「やっと会えたね」と、心の中で語りかけた。
帰宅後、最後にもう一度だけ男児の顔を見たいと思い、
翌朝、安置所に行き、男児に小さな花束をささげてきた。

「子どもと毎日触れ合いながら、命を守り、成長を見守ることが
一番の仕事だと強く感じた。
この責任の重さを忘れず、教師を続けていきたい」
高田教諭は力を込めた。

被災地では、教員たちが子どもの安否情報を求めて避難所を回ったり、
チラシを配ったりする姿が各地で見られた。
教え子についての情報を求める貼り紙も、多くの避難所にあった。

災害時の安否確認は、法で学校に義務づけられているわけではない。
それにもかかわらず、地震発生直後から走り回る教員たちの姿が。
子どもたちに、生きていてほしいとただ願う気持ちが伝わってきた。

http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/renai/20110414-OYT8T00192.htm

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