2008年5月30日金曜日

お茶は「寧波」から日本へ伝わった

(朝日 2008年05月20日)

中国茶評論家・工藤佳治

5月1日、「杭州湾海上大橋完成」の報道。
私にとっては、「お茶の日本への伝来」などを考えると、特別の思いに。
上海は、南側に大きな湾があり、深く内陸へ窪んでいる。
湾の一番奥は、お茶の中心地でもある浙江省杭州。
この大きな湾が、「杭州湾」。
この湾を挟んで上海の向い側の都市が「寧波」。
遣隋使、遣唐使の時代から、日本との行き来の窓口。
寧波と、上海の西隣の町「嘉興」まで海上36キロを、橋を架けて結んだ。
海上の橋としては世界一。
上海から寧波に行こうとした場合、高速でぐるりと湾を廻り、
4~5時間はかかっていた。それが、大幅に短縮。
省別GDP中国一の浙江省は、これでまた豊かになる要素が増えた。

寧波の南には、プラスチック成型製品生産の世界の工場
「温州」といった都市もある。
日本の100円ショップも、この都市に支えられている。
寧波は、古くからの日本との窓口の港町。
偏西風の関係で、ここを船出すると、北九州へ着きやすく、
瀬戸内へも入りやすかった。
鑑真もこの港を日本へ向けて出帆したが、
嵐で何度も流されたことはご存じのとおりである。
アヘン戦争で清が敗れ、上海などとともに開港された町。
上海はその時、人口数千人の寂しい漁村。寧波は大きな港町。
ヨーロッパとの行き来も活発になり、
中国でも有数に大きく美しい教会が今でも残る。
日本へのお茶の伝来は、中国から。
鎌倉時代の僧・栄西が茶の種(木)を持ち帰り、植えた。
飲み方も伝え、『喫茶養生記』を著した、と歴史で習った方も多い。
栄西も、天台山で学ぶため、寧波に入り、帰国。
中国では、宋の時代。お茶は、今でいう抹茶の飲み方。
初めて日本にお茶を持ち帰ったのは、遣唐使でもあった最澄。
最澄も寧波に上陸し、天台山に学んだ。
日本にお茶を持ち帰ったが、定着することはなかった。
日本の茶道のもとになった中国の禅寺での茶事を、
日本に文献として伝えたと言われるのは、
京都・東福寺を開山した聖一国師。
博多の寺院の僧であった彼は、日本に帰化していた中国貿易商の
スポンサーを得て、徑山寺(浙江省)に学び、
禅寺でのお茶の様式を持ち帰った。
彼もまた、寧波に入り、日本へと戻った。

中国仏教四大名刹の一つ普陀山は、寧波の沖に浮かぶ島。
普陀佛茶」という銘茶が今でも作られる。
ここの開山のきっかけは、唐代の日本人僧・慧顎。
寧波から五台山(山西省)に学び、観音を日本に持ち帰るため寧波を船出。
しかし嵐で船は進まず、観音が中国を離れることを嫌っていると考え、
その観音を寧波の沖の島に祀った。それが普陀山の開山。
日本へのお茶の伝来は、寧波が中国側の窓口。
お茶だけではなく、古く中国からの文化の風は、
寧波から日本へ新鮮に吹きそそがれていた。
寧波は、現在でも中国有数のコンテナーターミナルを持つ大きな港町。
海上大橋の完成で、北と南の陸上輸送が活発化し、寧波はまた発展。
遣唐使たちは、ここに上陸して、遠く都・長安(現在の陝西省西安)、
僧であれば五台山などを目指した。
徒歩であったのであろうか。数カ月を要したかもしれない。
今、その距離はまた縮まった。

◆普陀佛茶(ふだぶっちゃ・浙江省)
寧波の沖合いにある島、中国仏教四大名刹の一つ・普陀山。
唐代からお茶が作られていた、と伝えられる。
普陀山は、日本人留学僧・慧鍔が開山。
広く世界中の華僑にも信者が多い。
少し黒みを帯びて湾曲した緑色の茶葉。白毫もまじり、産毛が多い。
爽やかな飲み口で、丸みがある。爽快感があり、甘い香りが残る。
日本人にもなじみやすいお茶。

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