2011年7月6日水曜日

スポーツ100年:現在・過去・未来/3 基本法、歴史的意味を考える

(毎日 6月28日)

国家戦略として、スポーツを推進することを明記したスポーツ基本法が成立。
前文で、目指すとしている「スポーツ立国」の実現によって、
「普通の人々」の暮らしは、どうなるのか?
戦前戦後のスポーツ政策の流れの中で、
スポーツ基本法の歴史的意味を考えてみる。

世界で競い合うトップアスリートの育成・強化に代表される
国際競技力の向上と、国民の誰もが、いつでも、どこでも
スポーツに親しむことができる生涯スポーツ社会の実現は、
「車の両輪」(鈴木寛・副文部科学相)と言われながら、
理想と現実は異なる。

文科省のスポーツ関連予算でみると、
競技力向上と生涯スポーツの格差は年々、拡大。
基本法の条文も、競技スポーツにより力を入れた表現が目立つ。
「競技力向上には、お金がかかる。
スポーツの高度化と大衆化の統一という観点から見ると、
組織にしても財源にしても、過剰なアンバランスが存在する」と
指摘するのは、戦後のスポーツ政策に詳しい
一橋大の尾崎正峰教授(スポーツ社会学)。

「高度化と大衆化の統一」
の背景には、
スポーツが普及して競技人口が拡大すれば、結果として優秀な選手が
数多く生まれ、競技力も向上するという考え。
1970年代に登場した理念で、「スポーツ権」を根拠とする欧州発祥の
「スポーツ・フォア・オール(みんなのスポーツ)」運動の進展に呼応し、
日本でも広がりを見せた。

72年、文部省(当時)の保健体育審議会(保体審)は、
「体育・スポーツの普及振興に関する基本方策について」を答申。
戦後初の体系的なスポーツ政策と言われ、
スポーツ施設の設置基準を人口規模別に提示。

人口5万人の場合、面積1万平方メートルの運動場が3カ所、
床面積720平方メートルの体育館が3カ所などと定めた。

住民が、日常的に利用できるスポーツ施設を整備する根拠が
市町村に与えられた。
戦後に提起されながら、未達成だった歴史的な課題を見据えたものと、
この答申を評価する研究者は多い。

戦後改革が進む46年、文部省は社会体育に関する通達。
「体育の生活化」というスローガンを掲げ、
三つの柱として指導者、組織、施設の充実を図る。

国際舞台への復帰に伴い、スポーツ界は「オリンピック至上主義」へと回帰。
東京で、58年に開催したアジア大会の成功は、
東京五輪招致決定への呼び水となった。
国が、スポーツのために補助金を支出することへの正当性を与えたのが、
61年制定のスポーツ振興法。

70年代まで続いた高度経済成長は、生活様式の急激な変化を促し、
国民の間にスポーツへの要求が高まった。
そんな社会の変化を背景に、72年の保体審答申は出されたが、
財政的裏付けを欠いたことから、結果的には「作文」に終わった。

◇身近な施設、脆弱なまま

モスクワ五輪ボイコットやバブル経済に象徴されるように、
80年代以降、スポーツは政治や経済の波にのみ込まれていく。

竹下登首相の私的諮問機関は88年、
(1)スポーツ省の設置、
(2)メダリストへの功労金制度、
(3)選手強化のためのナショナルトレーニングセンターの設置、
などを柱とする報告書をまとめた。

「スポーツ振興の国策化」は、翌89年の保体審答申
「21世紀に向けたスポーツの振興方策について」にも色濃く反映され、
「選手中心主義」への再度の路線転換は明確に。
今世紀に入って、トップに厚く、裾野(地域)に薄くという流れは加速。

スポーツ振興法は制定当初、地方自治体がスポーツ施設を建設する
経費の「3分の1」を国が補助すると規定。
06年の改正で削除された。
国の社会体育施設整備費(地方自治体への補助金)も、
82年度の118億円をピークに、05年度は10億円。
翌年度から、予算表の項目が消えた。

スポーツ基本法は、スポーツに関する施策の策定、実施については
国や地方公共団体の「責務」としながら、一般の国民が利用できる
具体的なスポーツ施設の整備については、努力規定にとどまる。

尾崎教授は、「いろいろな調査をする中で、スポーツをする
公共的な基盤は縮小していることが分かる。
今回の基本法も、一番重要なスポーツ施設の整備を後押しするような
法律規定にはなっていない

現行のスポーツ振興基本計画は、成人の週1回以上のスポーツ実施率を
50%(2人に1人)とすることを目標に掲げた。
文科省のスポーツ立国戦略は、65%(3人に2人)とすることを目指す。
公共の施設は増やさない中で、
数値目標は上げようと言っているのに等しい。
身近なスポーツ施設の脆弱さは、スポーツ政策の当然の帰結とも言え、
スポーツ基本法もその流れの中にある。

◇特別な理由なければ…

戦時下、国策によって都市に重点を置いたスポーツ施設の拡充政策が
本格的に行われたことが、最近の研究で明らかに。

戦火の拡大により、40年開催が決まっていた東京五輪の返上が
閣議決定される直前の38年2月、文部省に代わって
社会体育行政を担うことになった厚生省(当時)は、
「体育国策の具体案」を発表。
東京、仙台、大阪、福岡の4都市に国立総合体育運動場を建設するほか、
人口5万人以上の都市に各種の運動施設を整備するという計画。

一橋大の坂上康博教授(スポーツ史)によると、
綿密な施設設置基準が設定され、一部については
72年の保体審答申よりも高い基準だった。

国民の体力向上を目指す厚生省のスポーツ施設の拡充政策は、
内務省による防空緑地拡充政策と一体のものとして進められたのが特徴。
坂上教授は、「スポーツ施設建設は、戦中は国民の体位向上や
都市防空緑地施設といった名目、戦中戦後を通しては
オリンピックや国体といったメガイベントのためといった
特別な理由を冠して、やっと実施された。
そんな厚化粧をしなければ、国家予算を獲得できないという
貧困な状況には変わりない」

◇計画策定、慎重に

スポーツ基本法が成立した17日、JOCの久木留毅・情報戦略部会長
(専大准教授)は、「ようやくスタートラインに立った」。
今後、文科省はスポーツ基本計画の策定作業に入る。
久木留氏の言葉を借りれば、スポーツの「未来予想図」を描くこと。

スポーツ政策の国際比較の対象として、頻繁に登場するのが
西ドイツの「ゴールデンプラン(黄金計画)」。
60年に策定されたスポーツ施設建設の15カ年計画、
政府ではなく、民間団体のドイツ・オリンピック協会が策定。

ドイツのスポーツ史を研究する山本徳郎・奈良女子大名誉教授によると、
内容は子細を極めた。
3~6歳の子どもの遊び場の場合、
「住民1人当たり0・5平方メートル(人口密度によっては0・25平方メートル)
とし、望ましい大きさは150平方メートル。
できるだけ住居の近くに、限度は100メートル以内」という具合。

計画がなぜ必要なのか、どんな施設がどの程度必要なのか、
どのくらいの予算が必要なのか、調査を続けた。
その建設にかかる予算を、国(連邦政府)が2割、州(地方政府)が5割、
市町村(地方自治体)が3割負担することを決め、各議会に議決。
計画が発表されると、すぐ実行に移され、予定の15年間で
ほぼ100%の成果を上げることができた。

ドイツは、第二次世界大戦後の都市計画を策定する中、
スポーツをどう位置付けていくか、第一次世界大戦前から
時間をかけて調査、議論を重ねた。
山本氏は、「日本は、計画策定のプロセスを学ぶべきだ」

新しい基本計画の策定には、現行の振興基本計画の評価と検証が
欠かせないことは言うまでもない。
==============
◇主な参考文献

・尾崎正峰「スポーツ政策の形成過程に関する一研究」
(一橋大学研究年報人文科学研究39)
・坂上康博、高岡裕之編「幻の東京オリンピックとその時代」(青弓社)
・関春南「戦後日本のスポーツ政策」(大修館書店)
・森川貞夫「『国策としてのスポーツ』論の系譜と“強化策”の問題と
今後の課題」(スポーツ社会学研究第18巻第1号収録)
==============
◇国家(政治)とスポーツをめぐる関連年表◇

1911(明治44)年7月 嘉納治五郎が「大日本体育協会」設立
1924(大正13)年5月 パリ五輪への選手派遣に政府が補助金
           10月 第1回明治神宮競技大会(内務省主催)
           11月 文部省が第1回全国体育デー
               ※国民の体位・体力向上を図る
1932(昭和7)年4月 文部省が「野球統制令」施行
1936(  11)年7月 東京オリンピック開催がIOC総会で決定
1937(  12)年7月 盧溝橋事件 ※日中戦争始まる
1938(  13)年1月 厚生省設立
           2月 厚生省が「体育国策の具体案」発表
           5月 国家総動員法発令
           7月 東京オリンピック返上を閣議決定
1939( 14)年10月 厚生省が第1回体力章検定実施
              ※15~25歳の男子対象
1940( 15)年6月  紀元二千六百年奉祝東亜競技大会
1941( 16)年12月 真珠湾攻撃 ※太平洋戦争始まる
1942( 17)年 4月 「大日本体育会」(東条英機会長)発足
              ※大日本体育協会を改組・強化
1945( 20)年 8月 敗戦(無条件降伏)
1946( 21)年 8月 第1回国民体育大会(夏季大会)
1947( 22)年    スポーツ議員連盟発足
1958( 33)年 5月 東京アジア競技大会
1959( 34)年 5月 東京オリンピック開催がIOC総会で決定
1960( 35)年    西ドイツが施設整備の15カ年計画「ゴールデンプラン」策定
1961( 36)年 6月 スポーツ振興法成立
1964( 39)年10月 東京オリンピック
1972( 47)年 2月 札幌冬季オリンピック
          12月 保健体育審議会答申
              ※スポーツ施設の設置基準提示
1975( 50)年 3月 欧州評議会で「みんなのスポーツ憲章」採択
1978( 53)年11月 ユネスコが「体育・スポーツ国際憲章」採択
1980( 55)年 5月 政府の圧力を受け、モスクワ五輪不参加を決定
1988( 63)年 3月 竹下首相の私的諮問機関が「スポーツ振興の国策化」提言
1989(平成元)年11月 保健体育審議会答申
               ※施設整備についての責任を地方自治体に
1997(   9)年12月 日本スポーツ法学会が「スポーツ基本法要綱案」公表
1998(  10)年 2月 長野冬季オリンピック
            5月 スポーツ振興投票法成立
2000(  12)年 9月 文部省が「スポーツ振興基本計画」策定
2001(  13)年 3月 スポーツ振興くじ(toto)全国販売開始
            5月 日本オリンピック委員会が「ゴールドプラン」策定
           10月 国立スポーツ科学センター(JISS)開設
2007(  19)年10月 自民党が「スポーツ立国調査会」設置
2008(  20)年 1月 ナショナルトレーニングセンター(NTC)開設
            6月 スポーツ立国調査会が中間報告
2009(  21)年 7月 自民、公明両党が「スポーツ基本法案」提出
               (衆院解散により廃案)
2010(  22)年 6月 自民、公明両党が「スポーツ基本法案」提出
               (超党派による11年の法案提出に伴って取り下げ)
            8月 文科省が「スポーツ立国戦略」発表
2011(  23)年 6月 スポーツ基本法成立

http://mainichi.jp/enta/sports/general/general/archive/news/2011/06/28/20110628ddm035050135000c.html

0 件のコメント: