2008年11月22日土曜日

市民参加型イベントこそ、スポーツ界の主役だ [第1回] オリンピックは参加型のイベントだった

(sfen.jp 08.09.24)

北京五輪が終わって約1週間がすぎて、この原稿を書いている。
現地に行かず、テレビ観戦に終始したせいもあってか、
興奮が覚めるのが早い。
閉幕直後は、オリンピック中継がない寂しさも感じたが、
わずか1週間ですっかり遠い過去の出来事に思える。

幼いころ、若いころはそうではなかった。
オリンピックの余韻は、数週間も続いた記憶がある。
自分自身が齢を重ね、感度が鈍くなった、感動に慣れたせいなのか。
それとも、世の中の流れが変わったからなのか。

1964年の東京五輪のとき、筆者は小学校2年生だった。
大会から数ヵ月経った『卒業生を送る会』でも、
重量挙げのジャボチンスキー(ソ連)がバーベルを上げたまま
片足を上げてみせた真似や、三宅義信選手が慎重に拳を開いたり閉じたりして、
握る場所を測る真似などが「出し物」に。
マラソンで優勝したアべべ選手(エチオピア)が、
ゴール直後に平然と整理体操をした姿に衝撃を受けたことは、いまも忘れない。
そのような深い驚嘆を、北京五輪がどのくらい世界の人々に与えただろう。

中国の子どもたちは、東京五輪直後の日本の少年と
同じような熱に打たれているかもしない。
けれど、日本をはじめ多くの国の人々にとって北京五輪は、
素朴な興奮と感動の源泉ではなく、4年に一度の『テレビのスペシャル番組』の存在に。

オリンピックには「4年に一度」ゆえの特別感があり、勝負の緊迫感も増す。
だが本来、4年に一度開催した理由はそうした緊迫感を演出するためではない。
近代五輪が始まった1896年、世界は広く、容易に大陸間を移動できなかった。
スポーツを愛する若者たちが、なんとか4年に一度だけ
同じ場所に集うことに大きな意義があった。
万難を排して「スポーツの祭典」に参加すること自体が、人生の勝利。
競技力だけでなく、仕事や経済的事情、家族や職場の理解など
あらゆる条件をクリアしなければ五輪への参加は叶わなかった。
何しろ、往復の船旅だけで軽く1ヵ月以上を要する選手が少なくない。
だからこそ、「参加することに意義」があった。

オリンピックは、世界レベルの『参加型イベント』だった。
それから100年以上経って、世界は狭くなった。
スポーツの交流は日常的になり、バレーボールのように年に何度も五輪と同じか、
それ以上の国々が参加する国際大会が開かれる種目も珍しくない。
その点ではもはや、オリンピックの存在価値は薄らいでいる。

スポーツという分野、スポーツの活動が、社会から熱い期待を受けている。
国内で、深刻な事件が多発。
青少年が心技体の基本を失い、日本人としてのわきまえ、道徳観、倫理観が
失われつつある。
ゲームやインターネットなど、バーチャルという空想世界で暮らす時間が多くなり、
現実の痛みを知らない、理屈だけが先走る、
現実の厳しさから逃れて生きる子どもたちや、若者が激増。
そうした環境が、危険な発想・非人間的な行動の温床に。

モンスターペアレントと呼ばれる、身勝手な大人たちも急増。
心身のバランスを崩した社会人の割合も高い。
閉塞的な状況で、スポーツが人々の心身の健康を取り戻す
「切り札になる」と期待する者は少なくない。
スポーツに携わる者ならなおさらそう感じ、使命感を覚えている。

だが、スポーツの分野も社会状況に翻弄され、本来の良さを失いつつある。
現状のままでは、決して日本の閉塞状況を救う切り札ではありえない。
オリンピックは、ロサンゼルス五輪をきっかけに「商業化」。
オリンピックと共に、スポーツ界全体も商業化の流れに支配されてきた。
本当の影響や実態を、スポーツを愛する者、スポーツに携わる者は
冷静に分析し、改革すべき時期。

国際オリンピック委員会、各競技の国際連盟(協会)が商業化を受け入れ、
「選手のプロ化」が進み、スポーツの大会や組織がビジネスの世界に解放され、
スポーツ界が桁違いの国際ビジネスの渦に巻き込まれた。
スポーツは、テレビを中心とするマスメディアと広告代理店、協賛企業の意向が
強く反映されるビジネスそのものに。

日本の社会が求めている「スポーツへの社会的使命」を、
メディアや広告代理店、協賛企業が主導で構築している
スポーツ・ビジネスは果たしてくれない。
彼らはそれを目的にしていないし、哲学的な使命も感じていない。
メディアが「スポーツ」と呼ぶのは、スポーツの一角。
メディアが扱うスポーツは、巨額の予算が動く『見るスポーツ』が大半。
商業化が進み、テレビを中心にスポーツ・ビジネスが展開され、
スポーツはテレビの規格、テレビの基準で判断されるようになった。
ゴールデンタイムに、2ケタの視聴率が稼げないスポーツは
「マイナー」と呼ばれる風潮を、スポーツの当事者たちが受け入れている。

社会が切実に必要としているのは、一部のスター選手や
一部の企業が利益を得るスポーツ・ビジネスの成功ではなく、
ひとりでも多くの人々がスポーツを通じて心身の喜びを感じ、
生きる希望を抱くこと、心身の健康を獲得すること。
いわば「参加型のスポーツ」の振興だ。

スポーツが隆盛しているように見えて、世間で語られるスポーツの大半が
社会的ニーズとは違うところにある「見るスポーツ」だという現実が、
いまスポーツ界が直視し、改革に乗り出すべき重要なテーマではないかと感じる。

小林信也(作家・スポーツライター)

慶応大学法学部法律学科卒業。
高校時代、投手として新潟県大会優勝や北信越大会出場を果たす。
大学時代からフリスビーを始め、ディスクゴルフ日本選手権大会や
ジャパンオープン・マスターズで優勝。国際大会でも活躍し、
1993 PDGAディスクゴルフ名誉の殿堂入りを果たす(アメリカ・ジョージア州)。

http://sfen.jp/opinion/citizen/01.html

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