2010年5月18日火曜日

インサイド:学ぶ・考える・やってみる 小平奈緒のスケート哲学/5止

(毎日 5月1日)

バンクーバー五輪後、小平奈緒はいったん帰国後、
すぐにワールドカップ(W杯)に出場するため出国。
長野に戻ってきたのは、3月16日。
それから3日間、茅野市の実家に戻るのを少し遅らせ、
早起きして長野市の屋内リンク・エムウェーブに通った。
「まだ営業していたので。だれもいなくて、貸し切りでした」

五輪の疲労からか、W杯では滑りが崩れていた。
崩れたままでシーズンを終えるのは不本意。
修正してオフを迎えたかった。

五輪後のシーズンをゆっくり休養する選手も多いが、小平は逆。
帰国後のあいさつ回りやイベント参加が一段落した後、
4月15日からトレーニングを再開する予定、
1日には「がまんできなくて、始めちゃいました」と笑う。

小平の練習好きは、昔から。
中学、高校時代に教えた新谷純夫さんは、
「練習に耐える体力は、男子並み。
体調が悪くても、練習を人より多くこなせ、滑りがおかしくなったほど」、
信州大時代から継続して指導する結城匡啓監督も、
「大学1年夏の菅平合宿で、(練習のし過ぎで)呼吸困難で倒れた。
こっちでセーブしないといけない、と気がついた」

五輪後、あこがれの先輩の言葉も、やる気に拍車をかけた。
3月末、男子500mのメダリスト、長島圭一郎(日本電産サンキョー)、
加藤条治(同)とともに、長野五輪で金メダルを取った
清水宏保と食事をする機会。
清水は、「長野の翌シーズン、休もうなんて思わなかった。
五輪では最強を求め、五輪後の3年は最速を求めないと」

最強と最速を追求する環境は整っている。
大学を卒業した昨年、はじめてスケートに専念。
松本市にある相沢病院のサポートを受けられた。
就職にあたって、小平が唯一希望したのは、
信州大の結城監督の指導を受け続けられること。

不況のためか、なかなか見つからなかった。
4月に入っても決まらず、小平もあきらめかけたころ、
日本スケート連盟が提携するスポーツドクターで、
相沢病院のスポーツ障害予防治療センターに勤務する
村上成道医師が、相沢孝夫院長に引き合わせてくれた。
相沢病院は、小平が08年に左足を痛めた時、リハビリで世話に。

相沢院長は、「地元で頑張っている選手を応援するのが、
地域の病院の役目」と快諾、昨年4月16日付で採用が決まった。
病院に勤務しなくてもいい、という好条件で、
小平は「スケート一本の生活はとても楽しい。
長野という地域に、ずっと支えられている」と感謝。

結城監督は、「内発的動機付けのレベルがとてつもなく高いこと」が
小平の最大の長所。
心理学で、報酬や名誉といった外からの刺激によって
モチベーションを上げるのが、外発的動機付け。
目の前にリンゴがぶら下がっている状態。
リンゴがなくても走りたい、と思う心の動きが、内発的動機付け。

うまくなりたい、速くなりたい、強くなりたい。
心の中からわき上がる思いが、小平をトレーニングに向かわせる。
その先に、14年ソチ五輪が待っている。

http://mainichi.jp/enta/sports/general/archive/news/2010/05/01/20100501ddm035050147000c.html

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