(毎日 7月20日)
平城京遷都1300年を迎えた奈良を代表する遺産の一つが、
正倉院の宝物。
その中に、光明皇后が貧しい病人を救うため創設した
「施薬院」などで使われたとみられる薬物が収蔵。
戦後、2度の科学的分析が実施され、長く謎として残っていた
薬物の正体も最近判明。
西域や南方など世界中から渡来した、いにしえの薬は
どんなものだったのだろう。
◆60種類を収蔵
正倉院の収蔵品には、美術品とともに60種類の薬物が含まれていた。
それらは、「種々薬帳(しゅじゅやくちょう)」と呼ばれる書面に、
数量とともに記されていた。
巻末には、当時の政治の中枢にいた藤原仲麻呂の署名もある。
最初の科学調査は、戦後まもない1948~49年に実施。
当時は、分析技術が十分でなかったため、
94~95年に2回目の調査を実施。
その結果、種々薬帳に記載された薬物のうち、38種類が今も残り、
記載外の薬物も約20種類見つかった。
38種類の内訳は、
動物生薬5、植物生薬20、鉱物生薬8、動物の骨など化石薬5。
建立から100年間は、薬物の出入りを厳重に管理していたが、
それ以外にも記載されない出入りがあったとみられる。
◆原料すべて分析
調査班は、2回目の調査ですべての原材料を分析、
「厚朴(こうぼく)」と書かれた薬物の原料が分からないままだった。
厚朴は、現在も漢方薬として使われ、モクレン科のホオノキから作る。
調査班代表の柴田承二・東京大名誉教授(94)らは、
正倉院の「厚朴」がホオノキとは特徴が異なることに注目、
中国の文献を調べた。
その結果、クルミ科の植物の樹皮を使う例があることが分かった。
中国や台湾から、クルミ科の「黄杞(こうき)」を取り寄せ、
顕微鏡で観察したところ、特徴が正倉院の厚朴と一致。
柴田さんは、「現在の厚朴と同様、胸腹部の膨満感や精神不安などに
効果があるようだ。(長年の謎を解き)やれることをやったとの思いだ」
◆世界でもまれ
正倉院の薬物は、遣唐使や鑑真和尚によって、
唐からもたらされたと考えられている。
産地は、中国(唐)だけでなく、シルクロードを越えた西域やアラビア、
マレー半島など南方まで幅広い。
中国の墓から薬物が発掘された例はあるが、正倉院のような建物に、
詳細な記録とともに長期間保存された例は世界でもまれ。
校倉造の構造が、内部の環境を一定に保ったため、
保存状態もよく、鎮痛などに効果がある「甘草(かんぞう)」は、
今でも使用可能なほど薬効成分が残っていた。
建立後100年間の記録を調べたところ、自律神経を整える
「人参」、下剤の「大黄(だいおう)」などが大量に使われていた。
これらは、「施薬院」で使われた可能性がある。
◆消えた毒薬
毒性があるアルカロイドを含む「冶葛(やかつ)」が、
大幅に減っていたことも分かった。
柴田さんは、「他にも、毒薬として使える『狼毒(ろうどく)』が
なくなっていた。聖武天皇の死後、都では権力抗争が起きた。
疫病が流行し、世情も不安定だったと考えられる。
これらの毒薬がどのように使われたのかは、想像に難くない」
正倉院の薬物の科学的分析は、現代のさまざまな漢方薬の
研究にも寄与した。
人参に含まれる有効成分サポニンを、25種類突き止めた。
大黄の主成分がセンナ葉と同一であることが分かり、
生薬を使った下剤の研究開発に結びついた。
最初の調査から参加している柴田さんは、
「正倉院の薬物は、日本の財産。
完全な形で残っているものもあり、それぞれの有効成分が
ほとんど分かった。世界でも非常にめずらしい薬物の研究に
携わることができたことは光栄だ」
◇正倉院
750年代に創建された、校倉造高床式の倉庫。国宝。
収蔵品は、聖武天皇と妻・光明皇后のゆかりの品や、
東大寺の大仏の開眼法要で使われた品など、計約9000点。
現在、宝物類は別に建設された鉄筋コンクリートの宝庫に
移されている。
天皇の命令によって長期間封印され、厳重に管理されたため、
貴重な宝物が守られた。
現在も扉を開くのは、年1回の「開封の儀」だけ。
98年、「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録。
http://mainichi.jp/select/science/news/20100720ddm016040113000c.html
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