2010年7月30日金曜日

スポーツ政策を考える:小笠原博毅・神戸大准教授(社会学)

(毎日 7月24日)

文部科学省によるスポーツ立国戦略などの動きに、
違和感を覚えている。

二つの全く異なるものが、「スポーツの底上げ」という
文言のもとに、混同されている。

一つは、世界に通用するアスリートの養成で、
タレントを発掘してナショナルトレーニングセンターなどで、
エリート教育をしようというもの。

もう一つは、ジェンダー、年齢、障害のあるなしを問わず、
すべての人がスポーツをする権利を得て、
スポーツのバリアフリー化を進めていこうというもの。

前者と後者は連動していると言われているが、
前者の目的は勝利、後者は民主的な社会参加で、
異なる次元の問題である。

特定の政策立案のためには、特定の利益団体が
ロビー活動を通して圧力をかけていく。
比重は当然のごとく、成果が分かりやすいサッカー、野球、
陸上といったメジャースポーツや、オリンピックでメダルが
有望な競技に置かれ、あらゆるスポーツ活動に
あらゆる人たちが参加できるようにという後者は後回しに。

スポーツをする権利には、スポーツをする場所を使用する
権利も含まれる。
事前申し込みや抽選などの煩雑な手続きや、
不必要な管理の強化や企業による私有化によって、
公園すら好きな時に自由に使えない。

自治体は、住民へのサービスの提供者であるにもかかわらず、
使わせてやるという、お役所的感覚が抜けていない。

住民側も、その意図に見合った準備過程を踏んだうえで、
自ら始めたスポーツ行為の結果責任は自分で取る、
という意識を持つことが必要。

プールには準備体操をしてから入るなどといった、
最も基本的なことすらできない人が増えている。
今の日本では、スポーツという文化が持つ価値が、
社会全体に承認されているとは言えない。

サッカー・ワールドカップでの日本代表の健闘をたたえながら、
しょせんアスリートはスポーツしかできない
見せ物の一部だろう、という認識がどこかにある。

誰もが日常的にスポーツを楽しみ、何かを学び、
意味を見いだせるような環境を整えていく。
現役のアスリートがもっと声を上げるべきだ。

自らがプレーする環境が、どうやって整えられたのかを
知ったうえで、その社会的背景や政治的帰結について、
積極的に発言してほしい。
その影響力は、メディアや学者よりはるかに大きい。

多文化化の時代、日本国民のためだけの
スポーツ基本法はもう意味がない。

スポーツにかかわる政策や法律には、
グローバルな視点が必要。
国籍や人種、経済力に縛られない社会参加の最前線へ。
その可能性を、スポーツは最も強力に追求できる。
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◇おがさわら・ひろき

1968年生まれ。ロンドン大学ゴールドスミス校博士課程修了。
「サッカーの詩学と政治学」(共編著)。
専門はメディアやスポーツ文化。

http://mainichi.jp/enta/sports/general/general/archive/news/2010/07/24/20100724dde035070022000c.html

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