(毎日 2月13日)
世界的な経済危機が、国内のスポーツ界に大きな打撃を与えている。
90年代のバブル崩壊で企業スポーツは、次々と活動中止に。
「第2波」が追い打ちをかける形となり、日産自動車が
野球部、卓球部、陸上部の休部を決め、リストラが相次ぐ。
トップレベルの選手を支えてきた企業スポーツは、逆境にさらされながらも、
新たな展開を模索する動きも出ている。
日産のリストラ策では、09年3月期決算の営業損益が約1800億円の赤字に
陥るとして、従業員2万人の削減が打ち出された。
90年代の経営危機の際、日産は2チームある野球部を存続。
横須賀市に本拠地を置いた野球部の遠征費、用具費など運営費は、
年間約3億円。35人いた部員、スタッフは、
シーズン中になると業務を免除されて野球に専念。
99年度末、グループ全体で3兆円近い負債を抱え、
野球部は休部やむなしの状況だったが、ゴーン社長は
「社員の帰属意識の向上に貢献する」として存続を決断。
部員数や、シーズン中の業務免除こそ10年前と変わっていないものの、
年間運営費は大幅に削減された。
ただし、約1800億円の営業赤字に対し、
野球部休部による削減効果は大きい金額ではない。
東芝の野球部監督や関連会社の社長を務めた経歴を持つ
日本野球連盟の鈴木義信副会長は、「経営者は株主を含め、
対外的姿勢を見せなければならない。野球に理解があったゴーン社長が
心変わりしたのはそのためでは」
削減される社員の感情に配慮したとの見方も。
企業スポーツの調査を続けているスポーツデザイン研究所によると、
91~08年までに休廃部となった運動部は計324。
90年代後半から増え、98年に49、99年には58の部が活動を中止。
これをピークに減り始め、沈静化したかに見えたが、
昨秋から再び休廃部の波が襲ってきた。
昨年12月、プリンスホテルがアイスホッケーの西武プリンスラビッツを廃部、
ホンダも男子ハンドボール部の日本リーグからの撤退。
スポーツに積極的に取り組んできた日産の決定は、
こうした流れを「加速させるのでは」と危惧するスポーツ関係者は多い。
◇リスク回避へ複数企業から支援--社会との融和に活路
社員の福利厚生という目的で始まった企業スポーツだが、
社員の士気高揚や広告宣伝価値が求められた時代を経て、
さまざまな模索も始まっている。
新日鉄は、90年代バブル崩壊の教訓からスポーツ活動を
「所有から支援へ」という発想に。
バレーボール、ラグビー、野球の運動部を「広域チーム」とし、
複数の企業の支援を受ける仕組みを作った。
03年、新日鉄君津野球部を引き継いだ「かずさマジック」の鈴木秀範監督は、
「一つの企業に負担をかけないという考えでチームが発足」
特定の企業の経営問題で休部になるリスクは減った。
◇スポンサー獲得、目指す一流選手
オリンピックを目指すトップ選手の環境も変わった。
スポンサー契約を結んだり、契約社員になるケースが増えている。
98年長野冬季五輪の金メダリスト、スキー・ジャンプの船木和喜選手は、
自ら「フィット」という会社を設立。
船木選手は、「廃部でジャンプを続けられない人が続出しては、
日本ジャンプ界に将来はない」と会社のホームページで呼び掛け、
他の選手を受け入れながらスポンサー獲得やイベント活動をこなす。
休部が決まった日産自動車の卓球部にかつて所属し、
日本初のプロ卓球選手として活躍した松下浩二さんは、
「トップ選手の環境は良くなった」
その上で、「下の層の選手の受け皿が減っている。
上ばかりでは土台が広がらず、競技全体としてはマイナス」と課題。
新しい動きとして、スポーツを通じた社会貢献を打ち出す企業が増えてきた。
コニカミノルタは、06年「ランニングプロジェクト」をスタート、
陸上部で培ったランニングノウハウを、イベントを通じて一般の人に広めている。
池原実・広報グループ課長は、「スポーツも企業の財産であり、
それを社会に生かすのは十分可能だ」
サントリーのラグビー部が、小学生向けのラグビー教室を開いたり、
女子バスケットのジャパンエナジーが引退した元日本代表を中心に、
「バスケットボールクリニック」として全国を巡回する例。
リーグ戦を開催している団体競技が加盟する日本トップリーグ連携機構の
市原則之専務理事は、「企業の運動部は今後、社会に出て
存在価値を示さなければならない」
http://mainichi.jp/enta/sports/general/archive/news/2009/02/13/20090213ddm003050142000c.html
0 件のコメント:
コメントを投稿