2008年11月23日日曜日

市民参加型イベントこそ、スポーツ界の主役だ [第2回] 参加型スポーツイベントの可能性

(sfen.jp 08.10.08)

今年7月、「武蔵野スポーツ新聞」という月刊紙を創刊。
武蔵野市の話題だけを取りあげる、地域限定のローカル新聞。
武蔵野市には、今季からトップリーグに昇格したラグビーの横河電機がある。
昇格を機に、企業チームから地域チームへの脱皮をはかり、
名前を『横河武蔵野アトラスターズ』と変えた。
その心意気に、自分たちのできる形で応えたいという気持ちも。

サッカーのJFLで上位を走る『横河武蔵野FC』もある。
市民のチームがラグビー、サッカーふたつもあるのに、あまり認知が高くない。
練習試合などは、ふらりと入って行ける市内のグラウンドでやっている。
だが、自宅から徒歩や自転車で行け、無料で観戦できる贅沢を楽しんでいる
市民はまだ少ない。そうした情報を伝える新聞の存在意義があると思った。

武蔵野スポーツ新聞創刊の目的は、それら「見るスポーツ」の報道だけではない。
市民が主役の「するスポーツ」を応援したい、テレビにも全国紙にも載らない
地域のスポーツの話題を発信し、草の根のスポーツ選手にエールを送りたい、
との強い思いがある。

スポーツなら、政治信条も宗教信仰も越え、初対面の人とも親しく熱く交流できる。
スポーツ新聞を通じて、いままで他人行儀にすれ違っていた人たちと挨拶を交わし、
会話を交わすきっかけが作れるのではないか。
それがいちばんの願い。

その背景には、ここ数年の切実な体験と実感があった。
ひとつは、小学生が登下校の途中で、変質者に襲われる事件が都内で頻発。
小学生の子どもを持つ親として、それは不安な出来事だった。
学校と親がいくら努力をしても、カバーしきれない場面がある。
子どもを取り巻く「地域の目」が、こうした犯罪を防ぐ大事なベースになると痛感。
武蔵野市のような小さな市でさえ、隣り近所との付き合いが浅く、
自宅外の出来事に無関心な空気が強い。
顔見知りをもっと増やしたい、何気ない会話や挨拶を交し合う
コミュニティーにしたいと切実に思った。

新聞やテレビが取りあげるスポーツの話題は、
大半が世界一、日本一につながる競技のニュース。
ときにジュニアや若い選手、あるいはシニアの選手の話題もあるが、
その視線は勝利者に向いているものが多い。
スポーツの楽しさは、他人との競争(勝った負けた)ばかりではない。
自己との戦いもあり、競技をする喜びがあり、技を極めたり深めたり、
仲間ができる楽しみもある。

マスメディア主導でスポーツが語られる世相の中で、
スポーツの魅力が一部しか語られていないところが、実は大きな社会的問題、
スポーツを矮小化し、知らず知らず偏ったスポーツ観を広める要因に。

オリンピックで勝つことが最高の価値で、小さな大会の勝利には
大した意味がないような錯覚も与えかねない。
スポーツの感動は、小学校のグラウンドにもある、
家族で楽しむ公園の遊びの中にもある。
個人の感動、親子の感動は、ある意味でオリンピックの勝利より
遥かに価値がある場合も少なくない。

商業化が進み、グローバリゼーションの発想の中、
ささやかな感動の価値が低いような誤解をメディアは日々与え続けている観。

私たちが応援すべきは、世界にはばたく選手以上に、
毎日スポーツに取り組むひとりひとりのスポーツ愛好者たちだ。
それこそが、スポーツの効用を実感する基盤、
スポーツが社会にもたらす活力の源泉だと信じて、
僕はあえてローカルなスポーツ新聞を創刊した。

ささやかな感動に自信を与えたい。
マスメディアで紹介されないからといって、その感動や興奮の価値が低いのではない。
その人、その家族にとっては、五輪選手の金メダルよりずっと大切で貴い勝利や
挑戦があるという実感を、子どもたち、大人たちにも再認識してもらいたい。
武蔵野スポーツを創刊した心意気の底には、そうした情熱がある。

笹川スポーツ財団が推進している『チャレンジデー』プロジェクトなども、
同じ目的を果たす貴重な取り組み。
第一の目的は、住民たちのスポーツ振興とスポーツを
日常的に取り組むことで得られる心身の健康増進。
その成果は、個人にとどまらず、市町村がチーム一丸で戦うことを
通じて得られる一体感、チャレンジデーの話題を折に触れて
語り合うことで生まれるコミュニケーションの深まりにもある。

国民のスポーツ参加を活発にすると、国の医療費負担が大幅に減る、
だから医療費の予算をむしろ予防のためのスポーツ予算に充てたほうが賢明だ
といった数字を提示する人たちもいる。
それも大事な論拠だろうが、参加型スポーツの重要性は、
数字に表すことのできない、人々の心の交流、社会の親密度の復活にこそある。

参加型のスポーツが活発に行われたら、失われつつある近所づきあいが復活し、
社会の根幹を成す地域のコミュニケーション
(地域を越えた人と人とのコミュニケーション)を
日本社会が再び取り戻す可能性を秘めている。
生きがいを持ち、身体を動かす喜びを持ち、仲間と出会い交流する喜びを
日常的に感じていたら、いま社会を不安に陥れている異常な犯罪を
引き起こすような温床は淘汰されるのでは。
参加型スポーツイベントが生み出す喜びや感動が、
ひとりひとりの心を満たすことによって、社会に無限のエネルギーがみなぎるだろう。

東京の公共施設に行くと、2016年の東京五輪招致を促す横断幕や
ポスターが掲げてある。
「日本だから、できる 新しいオリンピック」とある。
具体的なプランはいま公募中で、まだ漠然としているようだが、
筆者は、一部エリートが集うだけの競技会はもうその役割を終えていると
訴え続けている。
「いまできる 新しいオリンピック」とは、誰もが参加できる、国際大会ではないか。

昨年2月から始まった東京マラソンは、その大きなヒント。
今年は北京五輪の代表権を競って、エリートランナーたちも一緒に走った。
だが、主役は3万人の市民ランナー。海外からの参加者もいた。

2016年の東京五輪では、そのプレイベントとして
東京マラソンのような参加型イベントをたくさん開催してほしい。
オープンウォータースイミング、トライアスロン、
老若男女がこぞって参加できる世代別のバレーボール大会、
卓球大会、バスケットボール大会、バドミントン大会などがあったら、
世界中から愛好者が日本を目指して訪れるのではないか。

その年は一年中、東京で参加型の各種大会を行う。
東京はその年、世界のスポーツ愛好者たちが
「一度は行かなければならない都市」になる。

一部のエリートのために施設を作り、観客のために交通網を整備するのでなく、
主役である市民が安全に競技でき、移動でき、楽しく過ごせる街づくりは、
日常の充実につながる施策ではないだろうか。
かれこれ30年以上、参加型のスポーツイベントに関わり続けている僕は
そんな夢を描いている。

http://sfen.jp/opinion/citizen/02.html

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