(共同通信社 2008年11月26日)
756年、仏教による鎮護国家を目指し大仏を造った聖武天皇が崩御、
光明皇太后は異国情緒あふれる遺品を正倉院に納めた。
その中に、アジア各地で採取された多くの薬も含まれている。
「種々薬帳」と呼ばれる薬の献納品のリストには60種が掲載され、
1994年からの調査で、現在も38種が残っていることが分かった。
調査した大阪大医学史料室の米田該典さんは、
「すべて唐からの輸入薬で、なくなった分は使い果たしたり、紛失したのだろう」
特徴的なのは、現在でもよく用いられる大黄、甘草、臈密、桂心、人参、芫花が
大量に納められていたこと。
米田さんは、「よく使ったため、多めに確保していたのだろう」と推測。
きらびやかな琵琶や鏡などと同様に、薬も国際色豊かだ。
鎮痛、鎮静作用のあるユリ科の鬼臼は、中国の長江以南、
潰瘍の消炎剤の甘草は、内モンゴル自治区東部から吉林省にかけての地域が
原産地と判明。東南アジア、インド産の薬草も。
奈良県明日香村の飛鳥京苑池跡では、中風治療の漢方薬の処方せん
「西州続命湯」と書かれた7世紀後半の木簡が出土。
唐の医学書の引用とみられ、飛鳥時代から大陸の最新医学が導入。
日本薬史学会評議員の鳥越泰義さんは、
「処方せんのような薬を作るには、正倉院の分だけでは種類が足りない。
日本各地から薬草を納めさせ、調合したのだろう」
種々薬帳には、皇太后の願文が記されている。
「もし病気に苦しむ者があれば、国の僧侶の許可を得て使ってもよい」
続日本紀には、皇太后が施薬院、悲田院の救済施設を設け、
飢えや病気に苦しむ庶民を治療、養ったとある。
米田さんは、「正倉院の薬は、一部の皇族や役人だけでなく、
病気の庶民にも用いられたはず。
日本の福祉医療の原点を見る思いだ」
http://www.m3.com/news/news.jsp?sourceType=GENERAL&categoryId=&articleId=83604
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