2009年5月4日月曜日

スポーツに今も覗く戦争の影

(日経 4月30日)

◆吉井 妙子・スポーツジャーナリスト

スポーツの現場にいると、意外にも戦争の歴史に
向き合わされてしまうことが多い。
4月23日朝日新聞に、アウシュビッツ博物館に関する記事が掲載。

なぜこの時期に、と疑問を抱きながらも、ドキドキしつつ文字を追った。
私は、アウシュビッツという文字に必要以上に反応してしまう。

4年前、日本のバレー界で長く監督を務めていたアリー・セリンジャー氏に、
自分はナチスドイツのホロコースト政策の生き残りであり、
生きて行くために、ユダヤ人強制収容所で受けた残忍極まりない迫害を
記憶から消さねばならなかった、と打ち明けられた。

◆名将は、「アンネ・フランクと一緒だった」と告げた…

セリンジャー氏の親族のほとんどがアウシュビッツで惨殺され、
彼はベルゲン・ベルゼンの収容所で、『アンネの日記』の著者、
アンネ・フランクと一緒だった。

ホロコーストという20世紀の負の遺産の生き証人が、
日本にいたという事実に驚き、彼の足跡を追った。

600万人のユダヤ人が殺戮された、というドイツやポーランドの
強制収容所を回ったが、ポーランド南部にある
アウシュビッツの存在感は圧倒的だった。

ガス室で焼かれた人間の灰、焼かれる前に刈り取られた膨大な髪の毛、
メガネ、義足まで展示、現場が語る事実の饒舌さに目眩を覚えた。

朝日の記事は、アウシュビッツ博物館が開館から60年以上経ち、
修復の必要に迫られ、資金問題が立ちはだかっているという内容。

次の一文に目が留まった。
「すぐさま応じたのは、ナチスドイツを生んだドイツ。
今年は、約100万ユーロ(約1億3000万円)を出資、
来年以降も提供を続ける構え。
だが、他国の反応は鈍い」

セリンジャー氏の話を機に、ナチスドイツを生んだ背景や、
その後の敗戦処理のやり方も知ったが、
ドイツはこの過ちから目を逸らすことなく、被害国に対し
膨大な賠償金を支払い、法律で「ホロコースト政策は無かった」とする
修正歴史主義者の発言も封じた。

ナチスドイツの同盟国でもあった日本はどうだったか?
戦後から60年以上経った今もなお、中国や韓国の選手、応援団から
向けられる反日感情を目の当たりにすると、
戦後の日本の対応を思い起こさざるを得ない。

ドイツ選手に対し、ナチスドイツの犠牲になったロシアやポーランド、
ハンガリー、フランスなどから、敵意をむき出しにされた試合を見たことが無い。

◆誤解されたイチローのひと言

その至近の例が、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)。
組み合わせのまずさから、日本は韓国と決勝までに
5回も闘い、そのたびに韓国の応援団はボルテージが上がった。
“敵意”の矛先は、イチローに向かった感がある。

伏線はあった。
第1回WBCのアジア予選で、イチローは
「これから30年、日本には手が出ない、と。そんな強さで勝ちたい」
韓国メディアに、「これから30年、日本には手が出ない」と紹介、
韓国の野球ファンの気持ちを逆なで。

イチローは、自分がメジャーで華々しい記録を樹立できたのは、
日本のプロ野球でその礎を作れたからで、
日本野球のレベルの高さをWBCで実証したい、と言いたかった。
そこに居合わせた記者なら、誰もがそう受け止めたはず。

韓国記者が大勢出席した準決勝の記者会見場で、
米国在住の日本人記者が、「発言が誤解されている。
韓国メディアが大勢いることだし、もう一度真意を伝えては」と進言。

しかし、イチローは毅然として言った。
「どう解釈するかは、受け取る人の人生観による。
言い直す必要はありません」

韓国メディアは、イチローが韓国野球を軽視していないことを知っていたはず。
だが、真意は伝わらなかった。
日本野球の「顔」でもあるイチローは、
彼らには日本そのものに映っても不思議ではなかった。

そんな経緯があり、今回のWBCも韓国応援団による
「イチローバッシング」が蒸し返された。
「Dead Ichiro」という揃いのTシャツを着た集団も。
汚い言葉も浴びせられた。
胃潰瘍になっても当然の環境。
そんな彼を、仲間達が必死に支え続けた。

◆勝利以上に嬉しかったWBCの拍手

日本対韓国の決勝戦は、魂と魂がぶつかり合う音が
グランドから聞こえてきそうなほど白熱。
激闘の末、日本が勝利すると、韓国スタンドからも拍手が起こる。
私には日本の勝利より、そのことの方が嬉しかった。

心を揺さぶるような両国の選手たちのプレーが、
観客席のライバル心を融和させたようにも見え、
それこそがスポーツの持つ力でもあると思った。
WBCメンバーの死闘を取材しつつ、歴史の重さがふと甦ってきた大会でも。

【編集部注】セリンジャー氏の半生を追った吉井妙子氏のノンフィクション
『サバイバー 名将アリー・セリンジャーと日本バレーボールの悲劇』
2008年8月、講談社から発売。定価1890円。

http://allatanys.jp/B001/UGC020005920090429COK00283.html

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