2009年4月15日水曜日

「グランドスラム」への扉(2)盛田正明氏 一生戦争続くものと覚悟

(日経 3月5日)

盛田正明氏は1927年5月、名古屋市に生まれ。
実家は、江戸初期から300年以上続く老舗酒屋「盛田」。
ソニーを創業した兄、昭夫氏は第15代当主。

子供のころは体が弱かった。
小学生のとき、1カ月皆勤したことがなかったほどだ。
学校より、家で遊んでいる方が楽しかった。
進学した旧制愛知県立第一中学校は、スパルタ教育で有名。
生徒は全員、何か運動部に入らなければいけなかったが、
しごかれる厳しい部にはとても入れない。

比較的おとなしいバレー部に入ることに。
2年生になるとレギュラーに選ばれ、背が高かったので
前衛のセンターでトスを上げる役。
相手や味方の動きを見ながら、総合的に戦略を組み立てる力が求められた。
4年生の時、全国優勝も果たし、バレーは大学に入学してからも続けた。

勉強はあまり好きでなかったが、物理や数学は面白ろかった。
飛行機が好きで、将来はパイロットになりたい。

1937年、日中戦争がぼっ発。
日本は太平洋戦争に向かって突き進んでいた。
当時は、今とはまったく世界が違った。
4歳の時、満州事変、小学校2年生の時、支那事変(日中戦争)、
中学に入ると大東亜戦争(太平洋戦争)が始まった。
自分の一生は、ずっと戦争が続くものだと思っていた。

中学4年(16歳)の時、米英のスポーツは禁止になり、
「勤労動員」で武器工場に行かされ、勉強や部活どころではなくなった。
軍人が学校に来て、大声で「出征志願者は手を挙げろ」と演説するなど
異様な雰囲気に包まれていた。

どうせ戦争に行くなら、大好きな飛行機に乗りたいと思い、
16歳の時に甲種飛行予科練習生(海軍の航空学校)に応募し、
特攻隊の訓練生になった。
母親は猛反対したが、「国を守るため戦わなければ」。
長男の昭夫は、海軍の技術将校だったが、
次男の和昭は海軍予備学生、三男の私は特攻隊訓練生。
両親は、下の2人の命はあきらめていたと思う。

訓練中の18歳のとき、終戦を迎えた。
「盛田」の酒蔵がある愛知県小鈴谷村(現常滑市)に帰って、
これからどうしようかと考えていた。
昭夫の大阪大学理学部時代の先生が教えていた
東工大専門部を受験して編入することができた。
東京・荏原の親せきの家に兄と下宿、そこから東工大へ通うことに。

兄は終戦の翌年、海軍技術将校時代に知り合った
井深大さんら30人ほどで会社を立ち上げていた。
東京通信工業(現ソニー)だ。
私は学生だったが、何か面白そうなことをしているなあと思っていた。

http://netplus.nikkei.co.jp/ssbiz/hiroku/hir090304.html

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