2009年4月17日金曜日

「グランドスラムへの扉」(4)盛田正明氏 仙台時代、テニスと出会う

(日経 3月11日)

テープレコーダーのヘッドに使うフェライト(磁気素材)を開発するため、
盛田氏は東北大学に研究生として派遣。

当時の仙台は、研究所の周りも火葬場や墓地しかなかった。
研究所の周囲も何もない場所だったが、テニスコートが2面あり、
若い助教授が休み時間にテニスをしていた。
私もできそうだと思いラケットを買って始めたのが、テニスとの出会い。

若くて体力が余っていたので、日曜日にはテニスクラブに通い、
朝から晩まで夢中で球を追いかけた。
我流で、誰かに教えてもらった訳ではない。
小さいころは体が弱かったが、10代の成長期に戦争で厳しい訓練を
経験したおかげで体力がついていた。

3年の研究生活が終わり、東京に帰れると思っていたら、
井深大さんから「仙台に工場をつくれ」と指示。
多賀城町(現多賀城市)の畑に囲まれた土地に、
総勢27人の小さな町工場をつくった。

仙台工場では、テープレコーダー用フェライトを生産。
現在は、磁気記録メディアの大型工場に。
東北大の岡村俊彦教授の下でフェライトの研究を手伝っていた
高崎晃昇さんに、井深さんや兄(昭夫氏)がお願いし、
工場長になってもらった。
私は技術担当だったが、会社員としては新人同然だったので、
高崎さんには教えて頂くことが多く、大変お世話になった。

振り返れば、仙台工場時代が1番楽しかった。
夜は泥棒が入る恐れがあったので、週3回は工場に泊まった。
誰かがけがをすると、バイクに乗せて病院に運ぶなど何でもやった。
仕事と私生活の区別がなく、いつ会社がつぶれるか分からないという
不安もあったが、組織や人間関係の煩わしさもなかった。

井深さんは、ソニー設立の目的として
「技術者が技能を発揮し、自由闊達で愉快な理想の工場を建設する」
ことを掲げていた。
私も、仙台で理想の工場を目指して仕事に取り組んだ。

2年ほど東京に戻って、テレビ放送用テープの開発に携わり、
再び仙台に戻って今度は放送用テープの工場を新設。
30代を仙台で過ごし、結婚して子供も生まれた。

1968年、厚木工場(神奈川県厚木市)でトランジスタの製造を担当。
この異動は大きな転機だった。
仙台工場では、技術では自分がトップだという自負があった。
トランジスタの知識はまったくない。
未知の分野に放り込まれてしまった。

http://netplus.nikkei.co.jp/ssbiz/hiroku/hir090310.html

0 件のコメント: