2010年6月8日火曜日

インサイド:五輪ボイコット30年・第2部 政治に敗れたJOC/2

(毎日 6月2日)

80年モスクワ五輪で、瀬古利彦さん(53)は、
男子マラソン金メダルの最有力候補と目されていた。

日本の不参加が決まった80年5月24日。
20キロ余りを走り終え、故中村清監督の自宅へ向かった。
社旗を立てた新聞社の車が並び、玄関には無数の靴、靴、靴……。

騒然とした雰囲気の中、中村監督と一緒に記者会見した
瀬古さんは、「心構えができていたから、
それほどショックではありません」と淡々と答えた。
「中村先生から、『こう言いなさい』って全部決められていたことも
ありますが、自分も次(4年後)があると思ったから、
『悔しい』とかはなかった」

80年12月の福岡国際、瀬古さんはモスクワ五輪の覇者、
ワルデマール・チェルピンスキー(東ドイツ)を破り、実力を証明。
84年のロサンゼルス五輪は14位、88年ソウル五輪は9位。
マラソンは、通算15戦10勝。
五輪の表彰台とは縁がなかった。

「モスクワ五輪に出たら、82年まで充電するつもり。
不参加になり、強さを証明したくて、ロスまでに頑張りすぎた。
ボタンの掛け違い。
一度歯車が狂うと、人生も狂ってしまう
今も無念の思いがこみ上げる。

瀬古さんや宗茂、猛さん兄弟を擁し、
メダル独占も夢ではなかったが、日本陸上競技連盟は
「ボイコットやむなし」の姿勢を変えなかった。
当時の日本体育協会会長の故河野謙三氏は、
参院議長も務めた政界の実力者で、日本陸連会長経験者。
歴代の会長には政治家が多く、
陸上界は政界の影響を受けやすかった。

日本陸連内部の会合では、財界関係者から
不参加要望が相次いだ。
当時の日本陸連専務理事で、体協理事やJOC委員も兼ねた
帖佐寛章さん(79)は、「五輪に参加すれば、
米国が石油やトウモロコシなどを、友好国から日本に送らせない、
と財界関係者から話が。一種の経済封鎖だよ」

ソ連のアフガニスタン侵攻に反発したイスラム諸国への配慮もあり、
日本陸連は、「アジアとの連帯」を考えて不参加に賛成。
アジア競技連盟加盟32カ国・地域のうち、不参加は19。
当時の日本陸連会長で、5月30日に94歳で亡くなった
青木半治さんも、アジアとの関係を重視。

西側諸国でも、英国やフランスなどは参加を決め、
国旗ではなく、五輪旗を使って開会式に臨んだ。
IOC副会長として、一貫してボイコット反対を主張した
故清川正二さんは、「過去80年かかって築いた日本のスポーツの
光輝ある歴史と、世界のスポーツ界の信頼が、
一朝にして潰え去ったとはいわないまでも、大きな汚点を残した」、
モスクワ五輪の公式報告書に記している。

88年夏季五輪招致で、名古屋市と争った
メルボルン(オーストラリア)から、日本は痛烈な批判を受けた。
JOC監修「近代オリンピック100年の歩み」によると、
メルボルン側は招致パンフレットで、
「名古屋は88年の開催地に立候補するようだが、
日本はモスクワ・オリンピックをボイコットしている」と非難。

「これ(国際社会での信頼関係)を修復するには、
今後よほどの努力と年月が必要とされる。
『オリンピック・ムーブメントの理念』を今一度思い直し、
JOCなりの『哲学』を持つ必要がある
清川さんの提言は、今に生きているだろうか。

http://mainichi.jp/enta/sports/general/news/20100602ddm035050003000c.html

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