2010年8月12日木曜日

インサイド:五輪ボイコット30年・第3部 歴代政権とスポーツ政策/1

(毎日 8月3日)

ソ連のアフガニスタン侵攻に反対する米国の呼び掛けに応じ、
1980年モスクワ五輪の不参加を決めた日本。
最終的には、日本体育協会が決定した形だが、
その背後では、「政治の力」が強く働いた。
政治とスポーツとの関係について、ボイコット時の大平正芳内閣を
はじめ、歴代政権がどうかかわってきたのかを取り上げる。

◇日米関係修復を優先

モスクワ五輪ボイコット当時の大平首相の娘婿である
森田一・元衆院議員(76)は、「大平さんが一人で決断したことだ」。
大平氏の秘書だった森田氏が、ボイコットに至る過程を初めて明らかにし、
カーター米大統領の意向を酌んだ首相の判断だった。

「ほかの首相なら、ここまで悩まなかっただろう。
文化やスポーツなど、『民』のことには介入しないことを
信条としていた大平さんは、スポーツは政治からの独立性を
保つべきだと考えていた」
森田氏は、行動をともにしていた大平氏が移動の車中で再三、
「どうするかなあ」と、五輪参加問題に思いを巡らしていた。
「最後は一人で決めた。
伊東(正義)官房長官(当時)にも相談しなかった」

◆明らかな政治介入

なぜ、大平氏はボイコットを決断したのか?
「大平研究」の第一人者、福永文夫・独協大教授は、
「在イラン米大使館人質事件(79年)が起きた当時、
日本はイランから石油を輸入していただけでなく、
イランとの合弁で石油化学工場を建設中だった。
カーター政権の大平内閣に対する評価は当初、必ずしも良くなかった。
日米関係がぎくしゃくする中、関係を修復するための手土産が
モスクワ五輪のボイコットだった

単なる米国追随というわけでもなかった。
米国は、ベトナム戦争で国際的な威信が失墜。
日本は、経済大国としての国際的な地位を築いていた。
福永教授は、「70年代までは、アメリカのしっぽについていけば
よかったが、もはやアメリカは超大国ではないという認識が、
大平さんにはあった。
だからこそ、アメリカを助けるという気持ちが強かった」、
当時の日米関係の変質を読み解く。

「共存共苦」(苦しみをともにする)という表現で、日米同盟を
再定義した大平氏は、米国をフォローする形で不参加を選んだ。

大平氏自身、スポーツへの露骨な介入は避けたかった。
米国には、協力せざるを得ない。
少なくとも形式上は、「スポーツ界の自主的決定」を演出しながら
ボイコットへ導く必然性が生まれた。

五輪参加の場合の補助金カットをちらつかせるなど、
政治の介入は明らかだった。
大平氏に近かった自民党の河野謙三・日本体育協会会長(当時)が、
五輪参加反対の決議をした80年5月24日の体協理事会の席で、
「政治が何を介入したんだよ」と気色ばんだのは、そんな事情。

早大時代、箱根駅伝で2度の総合優勝を経験している河野氏は、
ボイコット決定直前の陸上の国際大会で、
瀬古利彦が一万mのレースを制した時、国立競技場の貴賓席で突然、
声を上げて泣き始めた。
その様子を見ていた岡野俊一郎・国際オリンピック委員会委員は、
「本当は、瀬古を五輪に出してあげたかったんだ。
でも、立場上そうは言えなかった」と心中を察する。

◆反映されなかった精神

78年、ユネスコ(国連教育科学文化機関)が、
「体育・スポーツ国際憲章」を採択、「体育・スポーツの実践は
すべての人にとっての基本的権利」と宣言。
しかし、その精神は反映されなかった。

現在、日本ではスポーツ基本法の制定が検討。
大きなテーマは、「スポーツ権」の保障。
この議論に携わる日本スポーツ法学会の菅原哲朗弁護士は、
「カネを与えるから、国がコントロールできるのではない。
選手にも、国に対してものを言う権利があるはずだ」と主張。

http://mainichi.jp/enta/sports/general/general/archive/news/2010/08/03/20100803ddm035050101000c.html

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