2010年9月2日木曜日

アメフット:スタンフォード大コーチの河田剛さんに聞く(3)

(毎日 8月19日)

名門校スタンフォード大学で、アメリカンフットボール部の
コーチングスタッフとして活動中の河田剛さん(38)。
09年、米大学フットボールの伝説的名コーチ、ルー・ホルツ氏の下で、
スタッフとして働いた際の話を聞いた。

日本でアメリカンフットボールが始まってから、09年で75周年。
これを記念して、「09年7月、米国フットボール界随一の伝統校
ノートルダム大OBチームを招へい、日本代表が対戦」。
08年秋のこと。
ノートルダムOBチーム「レジェンズ」を、ヘッドコーチ(HC)として
率いることに決まったのがホルツ氏。

ホルツ氏は、33シーズンにわたってHCを務め、通算249勝。
率いた6大学をすべてボウルゲームに導き、ノートルダム大時代は
86年から11シーズンで100勝を挙げ、88年には全米王者。

ノートルダムでの12年目のシーズン前、同大学の名コーチだった
ヌート・ロックニーの記録105勝を抜かないため、
あえて勇退したといわれる謙虚な人柄もあり、
米国フットボール界の尊敬を集める指導者。

記念試合の話を聞いた河田さんは、
「当初は、日本代表のためになにかしたい、と考えた」
オフシーズンでも、スタンフォード大体育局の業務があった河田さんは、
代表チームに貢献するのは無理。
「それなら、本場のフットボールを日本のファンに見せることも、
日本に対する貢献だ」

頭を切り替え、今回の試合のために特別に結成される
ノートルダム・レジェンズのスタッフに応募することに。

人を介して履歴書をノートルダム大に送ったところ、
数日後にホルツ氏本人から手紙が。
そこには、「我々のチームにようこそ」という内容。

さっそくレジェンズのミーティングに参加した河田さんだが、
米国人コーチングスタッフは攻撃陣に厚く、守備が若干手薄だったため、
河田さんはスタンフォード大での役割と同じ、
ビデオによるプレー解析に加え、専門外の守備も担当。

「72歳のホルツさんが集めたコーチングスタッフは、
皆さん有名な方ばかりで、比較的年配ぞろい」
高齢者がコンピューターを操作するのは苦手、というのは、
米国でも日本とあまり変わらず、
「コンピューターを使用するコーチ業務が、私の元に集中する結果に」

河田さんは、日本代表チームについての情報がほとんどない
スタッフのため、07年ワールドカップ(W杯)での日本戦3試合などを
ビデオで繰り返し再生、攻撃・守備双方の偵察レポートを作成。
200ページに及ぶ守備のプレーブック(戦術書)も作成。

09年7月25日、東京ドームで行われた試合。
河田さんは、「スポッター席」と呼ばれる観客席最上部の席に陣取り、
戦況を分析。
サイドラインの守備担当コーチと無線機でやりとりした。
「守備コーディネーターだったゲーリー・ダーネルさんの英語は、
テキサスなまりがひどく、しかも興奮しているから
正確に聞き取るのに苦労した」

前半、日本の選手交代で入るユニットのメンバーから、
特定のプレーを割り出したときには、ダーネル氏から称賛。

試合は、19対3でノートルダム・レジェンズが勝利。
日本代表はタッチダウンを奪えず。
第3クオーター、ノートルダムDLハズブロックが日本のQB菅原を
エンドゾーン内でタックル、セーフティーで2点を奪うなど、
レジェンズ守備陣が日本の攻撃陣を圧倒し続けた。

「ダーネルさんが試合後、私に『TK(河田さんの愛称)、
スコアボードを見ろ。これは、ディフェンスウインだ。胸を張れ』と
声をかけてくれた」

ホルツHCからは試合後、こんな手紙をもらった。
「親愛なるTK、もう少し英語が上達すれば、コーチとして素晴らしい
未来が待っている。
もし私が(コーチとして)復帰するようなことがあれば、
必ず君のためにコーチの座を用意しよう」

「ホルツさんからの手紙は、私の一生の宝物」

この試合から半年近くたった09年シーズンのオフ。
ダーネル氏と、アシスタントヘッドコーチを務めたビル・ルイス氏から、
別々に同じ内容のメールと電話があった。
「次の仕事、どうするんだ?スタンフォードにいられるのか?
無理だったら、いつでも相談しろ」
河田さんの才能を評価してのことだった。

http://mainichi.jp/enta/sports/news/20100819mog00m050014000c.html

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