2009年3月6日金曜日

歴史に学ぶ

(サイエンスポータル 2009年2月23日)

日韓両国ともに限られた研究しかない日韓併合時代の
韓国医学教育に関する珍しいシンポジウム
「20世紀前半の韓国近代医学教育史」が、政策研究大学院大学で行われた。

2004年、韓国学術院の招きでソウルを訪れた黒川清・日本学術会議会長が、
朱軫淳・韓国学術院副会長から、38年もの間、韓国の医学教育に尽力した
恩師、佐藤剛蔵(1880-1960年)の業績を聞いたことが、
このシンポジウムにつながった。

佐藤剛蔵について調べるため、黒川氏が週刊新潮の掲示板欄で
家族の消息を問い合わせたところ、
熊本市在住の佐々木定氏が「孫」と名乗り出た。

佐々木氏は、黒川氏らとともにソウルを訪問、朱氏と感激の対面。
この日のシンポジウムは、黒川氏、朱氏、佐々木氏とともに、
佐藤剛蔵の業績をはじめとする韓国の近代医学教育史の研究を続ける
石田純郎氏(日本医史学会前理事、医学博士)、
李忠浩氏(駐福岡大韓民国総領事館領事)、
出口俊一氏(大学発起業支援サイト「デジタル・ニュー・ディール」事務局長)、
角南篤氏(政策研究大学院大学准教授)ら。

シンポジウムでは、日韓併合時代の韓国の医学教育は、
過去の歴史に日本もならった、という指摘が、李忠浩氏から出された。
「医療は、異文化社会に侵入するとき、拒否反応がなく受容されやすい」

李氏によると、韓国における医学教育は、キリスト教の普及と併せて
米国人宣教師によって進められ、
「日本の植民地統治が西洋の医療宣教師の活動を阻害し、
日本だけが韓国の医師教育を主導」

石田純郎氏によると、医師教育の役割を担った組織が
1902年につくられた財団法人同仁会(本部・東京)で、
「日本人医師を、朝鮮や中国・満州に送ることが目的」

佐々木定氏によると、祖父・佐藤剛蔵は、京都帝国大学医科大学を
卒業直後の1907年、同仁会直轄の平壌公立同仁会医院長として渡韓。
1910年まで医院付属の医学校で韓国人相手に医学教育を行ったが、
「韓国人生徒がよく、勉強し、よく覚えるので、本気で教育を行った」

総督府医務教官、同医務課長となり、
1916年、京城医学専門学校となったのを機に教授に就任。
欧州留学を挟み、1926年、京城帝大医学部教授兼京城医専教授となり、
1945年まで京城医専校長として日本、朝鮮両国の医学生の教育に。

朱軫淳氏が佐藤校長の教えを受けたのは、
1943年から終戦時までの2年5カ月。
日本人と朝鮮人の比率は3対1に決められ、学生同士の対立があった。

京城医専で受けた医学教育の内容は、
「戦時下の人、物不足で制限はあったが、大変充実した教育、訓練を受けた」、
佐藤校長を尊敬する気持ちも非常に大きい。
京城医専の朝鮮人学生の優秀さは、佐藤剛蔵も認め、
京城帝大医学部でも、「朝鮮人学生の成績の方が、日本人よりも優秀で、
成績不良で落第するのは、大部分が日本人」

李興基・ソウル大学病院・病院歴史文化センター研究教授は、
「韓国人医学生の成績は、大体上位圏に入る。
しかし、大多数が開業するのは学校、官公庁の奉職に差別があった」

日韓併合時代の韓国医学教育については、
これまで一部の限られた人だけの関心事になっていた。
今後、研究が進むと思われるが、その意義は何か?
「われわれが、佐藤剛蔵の精神を表現する使節になり、
こうした機会を、重要でよりよい未来の日韓関係のための種と土台としたい」

日本の科学技術力を、環境問題など世界的課題の解決に活用する
「科学技術外交」の重要性が叫ばれ、
途上国との具体的な共同研究プロジェクトが動き始めている。
日韓併合時代と現代とでは、状況が大きく異なるのは当然。

鍵を握るのは、資金以上に人である。
組織や体制だけでなく、佐藤剛蔵という人に焦点を当てて
歴史に学ぼうとする日韓両国の研究者たちの活動に注目。

http://www.scienceportal.jp/news/review/0902/0902231.html

0 件のコメント: