2009年6月3日水曜日

逆風の中で:第4部・冬季競技の模索/2 長野五輪後のスケート

(毎日 5月20日)

競輪の年間賞金ランクで現在首位に立つ武田豊樹は、
02年ソルトレークシティー五輪の
スピードスケート男子五百メートル代表だった。
ワールドカップ(W杯)では、3勝を挙げた実力者。
氷を離れた今、「現役時代から、スケートで食べていくのは無理。
競技をやめれば、会社にも残れないのが現実。
何でこんなに報われないのかと思った」と冷めた目で見る。

男子五百メートルで、日本は84年サラエボ五輪から
6大会連続でメダルを獲得、その「伝統」は06年トリノ五輪で途切れた。
かつて日本のスピードスケートの底流には、選手だけでなく、
指導者に対しても企業の手厚い支援があった。
その状況が揺らいでいる。

88年カルガリー五輪で銅メダルを獲得後、
現役を引退した黒岩彰さんは、所属先のコクドの社員として
母校である専大の監督を務め、
94年リレハンメル五輪で銅メダルを手にした堀井学らを育てた。

現在、日本電産サンキョーを率いる今村俊明さんも88年に引退後、
ミサワホームに籍を置きながら母校の日大を指導。
その中で育ったのが、98年長野五輪で金メダルを獲得した清水宏保。

堀井は専大、清水は日大で学生時代から
世界トップクラスの選手として活躍。
昨年、富士急の監督に就任した黒岩さんは、
指導者が、企業の支援を受けて大学の指導を行い、
若い世代からの底上げを図る構図が、
『強い日本』を支えていた」と振り返る。

長野五輪後には長引く不況の影響もあり、
ミサワホームが99年、コクドが03年に撤退。
「企業側に、大学の指導者を支援するまでの余裕がなくなったのは事実」
02年、堀井が所属した王子製紙のスケート部も廃部。

長野で頂点に立った清水は、三協精機(当時)を退社し、
NECを実質上のスポンサーとしてプロ的な競技活動をスタート。
ソルトレークシティー五輪は2位。
トリノ五輪は18位に終わったが、08年からは家電量販店のコジマと契約し、
来年のバンクーバー五輪を目指している。

日本を沸かせた長野五輪から11年。
競技を取り巻く環境は大きく変わり、多くの選手と指導者を抱える企業は、
富士急と日本電産サンキョーの2社。
日本スケート連盟の強化委員でもある今村さんは、
「活性化を図るためには、自分たちが結果を出すしかない」
2大会ぶりのメダル奪還に向け、
バンクーバーは企業スケート部にとって正念場の戦いとなる。

http://mainichi.jp/enta/sports/general/archive/news/2009/05/20/20090520ddm035050040000c.html

0 件のコメント: