2009年6月4日木曜日

逆風の中で:第4部・冬季競技の模索/3 スケルトンの奮闘

(毎日 5月21日)

企業の全面支援を受けた日本初のスケルトンチームが
誕生したのは、07年6月。
名称は「スケルトンクラブ」。
日本代表の最年長選手として02年ソルトレークシティー、
06年トリノの両五輪に出場し、来年のバンクーバー五輪に
3大会連続出場が懸かる越和宏(44)は、
チームの代表兼選手という立場。

越の個人スポンサーだったコンピューターソフト開発会社
「システックス」(本社・長野市)が、越を含む3選手の競技活動を
経済面でバックアップする。
越以外のメンバーは、田山真輔(26)と高橋弘篤(25)。
07年、会社サイドから「チーム化しても構わない」と聞かされた越が、
スポンサーが付いていないことや将来性などを考慮し、
若手選手をリストアップした。

「活動費の大半と給料が出るのだから、
若いメンバーにとっては革命的な事。
マイナー競技で企業から支援していただけるのは、
特別なケースだと選手にも話している」

企業の支援を、「特別なケース」と受け止める姿勢は、
越自身の経験がもたらすもの。
92年、ボブスレーから転向時、働きながら競技を続けた。
99年、スケルトンが五輪で実施されることが決まると、
フルタイムの仕事をしながら五輪を狙うのは無理だと判断し、
アルバイトなどで生計を立てることに。

ソルトレークシティー五輪翌年の03年、支援企業が無くなり、
「スポンサーを探している」と異例の記者会見を開いたことも。

企業から支援を受けられる立場になった今、
越はチームの活動を広く認めてもらおうと模索を続けている。
競技に専念するだけではなく、会社のホームページにブログを掲載し、
付き合いの場にも、できる限り顔を出す。
社員はもちろん、企業を通じて人や地域とつながりを持てないか、
という考え。

「バンクーバーでは、メダルを目指す」とした上で、越は言う。
「スポーツが、社会的に認知されるために必要なものは何か。
メダルがすべてではないと思う。
メダル以外の『何か』を明確にしないと、スポーツの支援が企業にとって
趣味に過ぎないものになり、景気に左右される形に。
私は、地域の人に『何か』を感じてもらう存在でありたい

スケルトン界の先駆者であり続ける越。
競技生活の土台は自分で築く、という徹底したプロ意識が、
道を切り開くパワーを生み続ける。

http://mainichi.jp/enta/sports/general/archive/news/2009/05/21/20090521ddm035050006000c.html

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