(日経 3月24日)
盛田氏は1982年、ソニー副社長に就任。
87年にはソニー米国法人の会長に就いた。
ソニーアメリカ(ニュージャージー州)は、
約1万3000人の社員のうち日本人は200人ほど。
経営会議に出席するため、月に1週間は帰国するなど仕事は多忙だったが、
米国赴任で、生活や考え方が変わり人脈も大きく広がった。
米国法人は、販売会社としてスタートしたが、
日米貿易摩擦の激化を受けて現地生産を始めていた。
カリフォルニアやアラバマに、テレビやビデオテープの工場を持っていた。
社内には、「販売が上で製造は下」という意識。
それではいけないと思い、組織を販売と生産の2つに分けた。
英語が堪能な安藤国威氏(後にソニー社長)を日本から呼び、
生産部門のトップに就いてもらった。
ソニーは商品のイメージが強いが、
製造部門が利益を稼がなければうまくいかない。
私は、工場の従業員にやる気を出してもらうおうと、
積極的に工場を訪れた。
工場は、人の動きや在庫などを一目みれば、うまくいっているかすぐ分かる。
工場などを訪れた回数は、5年の赴任期間で360回以上。
米国では、政財界との付き合いも重要な仕事の1つ。
井深大さんや兄(盛田昭夫氏)の知名度は高く、
金融機関やメディアのトップはソニーを一流企業と認めて接してくれた。
米国の懐の深さを知り、困ったことや分からないことがあれば相談できる
人脈を幅広く築くことができた。
私は、自宅でテニスパーティーを開くぐらいしかできなかったが、
IMG会長だったマーク・マコーマック氏や、ジミー・コナーズ、
モニカ・セレスといったトップ選手らテニス関係者とも親交を深めることができた。
盛田氏は92年に帰国。ソニー副社長を退任し、
ソニー生命の社長兼会長に就任。
兄が生命保険会社を設立したのは、昔から資金調達に苦労したため
グループの財務力を強化したかったからだ。
本当は銀行を持ちたかったようだが、当時は難しかった。
提携先の米プルデンシャル保険に学び、女性営業員が中心だった業界で
金融知識を備えた男性営業員が、完全歩合制で販売するスタイルを広げた。
そんな時、マコーマック氏がテニスの日米対抗戦を開催しないかと提案。
伊達公子選手や沢松奈生子選手が活躍し、
当時の日本女子はとても強かった。
「それはおもしろい」と思い、日本テニス協会に大会開催の許可を
お願いしたのだが、なかなか話は進まなかった。
http://netplus.nikkei.co.jp/ssbiz/hiroku/hir090323.html
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