2008年6月11日水曜日

[第1部・クロアチア](上)内戦…母国のため戦う

(読売 4月23日)

男子ハンドボール界でのクロアチアの強さは、抜きんでている。
人口440万人程度の小国が、サッカーやテニスなど
数々の競技で世界的な名選手を生んでいることは知られているが、
なかでもハンドボールは、王座に君臨する強さ。

クロアチアには、2つの黄金期があった。
最初は、1991年の内戦直後。アトランタ五輪で金を獲得。
もう一つは、アテネ五輪で優勝したリノ・チェルバール監督の時代。

アトランタ五輪で活躍したボジダール・ヨビッチ氏は、内戦時、
生まれ育った土地、バナルーカがセルビア人に占領され、ザグレブに移った。
20歳の時、故郷に残っていた親類から父に電話がかかってきた。
「叔父が誘拐された」。
「丸一日たって、叔父の遺体が川に捨てられているのが発見。
この時期、約50人のクロアチア人が誘拐されて帰ってこなかった」

内戦が続いていた92、93年は、欧州クラブ選手権に出場したが、
本拠地で試合をさせてもらえなかった。
ホームの試合は、ドイツの会場で行われた。
当時のクロアチアは、多くの人が他国に避難し、労働者として働いていた。
ドイツでの試合は、地元で働く同胞が観客席を埋め尽くした。

母国というのは、一番美しいもの。
故郷というのは、自分を大切に思い、応援してくれる人々のこと。
金や名誉のためじゃない。あのころは、その人々のために戦っていた」

アトランタ五輪で、母国・クロアチアの代表だったネナ・クリヤイッチ氏は、
それ以前、ユーゴスラビアの代表として戦っていた。
代表監督だった父の影響で始めた。
88年にザグレブで欧州優勝。その後、ユーゴの代表に。

内戦が激しくなり、選手たちは「おれたちも前線に行きたい」と言い出した。
それを議会が反対。
それでも収まらない選手が多く、
「スポーツ選手として、特権を受けるのはいやだ」と。

そんな時、代表選手らに極秘の指令が下った。
「本当に戦わなければならなくなったら、
最前線に出すためのスポーツ選手の特別部隊を組む。
だから、今は踏みとどまってくれ。
君たちが死んだら、子供たちが悲しみ、国民の士気が下がる」。

「私たち選手が、どんな気持ちでコートにいたか。分かるだろう」。
クリヤイッチ氏の目が悲しく光った。

http://www.yomiuri.co.jp/olympic/2008/feature/continent/fe_co_20080423.htm

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