2009年3月27日金曜日

中村 修二 氏(カリフォルニア大学 サンタバーバラ校 教授)

(サイエンスポータル 3月13日)

自分のアイディアを武器に、自分は修士課程まで進んだが、
当時大学に博士課程がなかったので、地元企業に就職した。
就職してからは、何から何まで自分でやらなければならなかったが、
製品ができるまでのストーリーを知ることができたのはいい経験だった。

その後、会社の支援を受けて米国へ1年間留学。
その時に、博士の資格を取得しているかどうかで、
扱いがまったく違うことを思い知った。
自分は博士号を取得していなかったため、実験の手伝いをする
技官としてしか見られなかった。

一般に米国では、博士号取得者は科学者として扱われ、待遇も全然違う。
このことがきっかけで、博士号を取得しようと思い、論文を書き始めた。
米国では博士号取得後、優秀な人はベンチャー企業を自ら立ち上げる。
大企業に就職する人は、むしろ出来ない人というイメージ。
それでも博士号取得者は、その専門性もあわせて評価されるため、待遇は良い。

日本の企業ではどうか?
採用に当たって重要視されることは学歴であり、
就職をしても博士はそれほど優遇されない。
同い年でも、個々に能力に差があるのは当然なのに、
学部卒、修士卒、博士卒で一律に給料が決まり、専門性はまったく見ない。
企業は、新入社員を一から勉強させようと思っているためだ。

そのことは採用試験を見てもわかる。
日本では、筆記試験を課し面接試験の割合が少ない上、
面接で専門性を聞くことはほとんどない。
米国はすべて面接で決め、専門性をきちんと評価する。

米国では、起業しやすい土壌があるのは確かだが、
米国だからといってベンチャーが成功しやすいわけではない。
成功率は1割くらいだろう。

それでも向こうでは、10回やれば1回成功するという感覚があり、
失敗しても何度でも挑戦できる環境にある。
なぜなら失敗しても、起業家は多くはお金を出さないので、
損をするのは投資家だけだからだ。
日本だと何度も挑戦できる環境になく、
1回失敗しただけで起業家が首をくくってしまう。

日米では、アカデミーの体質も違う。
日本ではアカデミーの研究者は、自己の研究室にこもり、
金もうけをしてはいけないという風潮。
米国では、工学部の教授もベンチャーを立ち上げることが推奨。
生きた研究を、大学に持ち込むことが期待されている。
当然、民間企業出身の教授が大半。

日本では、いろいろな差別があることも問題。
特に、教員の定年を設ける年齢差別。
ノーベル賞を同時に受賞した白川英樹博士とヒーガー博士が対照的。
ヒーガー博士は今でも大学で教えているし、会社もいくつか持っている。
しかし、白川博士は定年で退官してしまった。
これでは、せっかくの財産を後継者に伝えることができず、
貴重な財産を活かし切れていないのではないか。

これらの問題の背景には2つの原因。
ひとつは司法制度。
いろいろな差別に対して、日本の司法制度は利益考慮であるため、
必ずしも「個」が尊重されず、より多くの人が利益を得るような
判決が出るようになっている。
企業や国が勝つようなシステムになっているのだ。

米国では個々が尊重されるため、正義を主張して認められれば、
たとえ相手が大企業であろうと勝つことができる。
何人たりとも侵せない、「個」の尊厳を最も大切にしている。

もうひとつは教育制度だ。
米国では、小学校から模擬裁判を体験させたり、
社会で生きるとはどういうことかを教えている。
日本では、ウルトラクイズのような大学受験のための
5教科7科目を教えているだけ。
お金をもうけるということに、実感がともなっていない。
企業は特許を取ってもうけている、という側面があるにもかかわらずだ。

日本では、全員が同じことを同じだけ勉強させられる。
米国では、小学校から科目を選択できるから、
理科が好きな子はその興味を保ったまま大人になることができる。
だから、そのへんのおじさんが科学雑誌を読んでいたりすることも珍しくない。
このような光景は、日本ではまず見られない。

博士の学生には、まずは海外とくに米国へ行くことをお勧めする。
成功者は、海外に5年以上いたという研究結果も。
自分自身も、留学して外から日本を見た経験がその後の自分に影響を与えた。
企業に就職するにしても、勉強の場として一時的に企業へ入るという感覚を持ち、
最終的には自分のアイディアを武器に独立してほしい。

◆中村 修二

1973年愛媛県立大洲高校卒、77年徳島大学工学部電子工学専攻卒、
79年同大学院修士課程修了、日亜化学工業入社、
88-89年米フロリダ大学客員研究員、94年工学博士取得(徳島大学)、
96年日亜化学工業主幹研究員、2000年から現職。
窒化物系材料を使用した発光デバイスの研究開発に先駆的に取り組み、
93年に青色、95年に緑色のPN接合型高輝度発光ダイオードの製品化に
世界で初めて成功。
「負けてたまるか! 青色発光ダイオード開発者の言い分」(朝日新聞出版)
など著書多数。
日亜化学工業相手に、自身の研究成果に基づく特許の所有権と
社が得た利益の対価を求めた訴訟(日亜化学工業が中村氏に
8億4,000万円を支払う東京高裁の和解勧告受け入れで決着)でも知られる。

http://www.scienceportal.jp/highlight/2009/090313.html

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