(岩手日日 2009年4月2日~)
明治4(1871)年は、後藤新平にとって希望に燃え、
一転して悲しみに転じた年。
「学成らずんば死すとも帰らじ」のはずだった故郷水沢の地へと心が動いた。
明治2年6月17日、版籍奉還し、藩主は「知藩事」(現在の知事)トップの
支配者として任命、旧藩の行政を担当。
知藩事は274人、一口に300諸侯といわれた大名の数。
◆租税権ノ頭と使途
大久保利通は、国造りの体制を構築することに懸命。
その一つに、「岩倉使節団」の派遣。
明治4年11月12日、岩倉具視特命全権大使(右大臣・公家)、
副使木戸孝允(参議、長州)、大久保利通(大蔵卿、薩摩)、
伊藤博文(工部大輔、長州)、山口尚芳(外務少輔、肥前)の4人。
書記官、理事官、随行など総勢46人。
新政府は、金を惜しまずに大型団体を送り出す。
幕臣の福地源一郎(桜痴)、林董三郎(董)、土佐の佐々木高行、
田中光顕、薩摩の村田経満(新八、西郷隆盛と西南戦争に参加)、
長州の山田顕義(後の陸軍中将)、盛岡の大島高任らも参加、
留学生42人が同乗。
内訳は華族13人、士族24人、開拓使派遣女子5人、
この中に津田梅子も含まれていた。
民権運動に大きな影響も与えた中江兆民も留学生。
安場保和も、岩倉使節団の一人。
そこに至るまでに興味深い話がある。
岩倉使節団が欧米に差遣されなければ、
後藤新平の運命はみじめなものであったろう。
岩倉使節団の出発を前にして、こういうことがあった。
視察団が派遣されるに当たり、大蔵大丞安場保和を、
大久保利通が訪ねてきた。
安場は、租税権ノ頭という職に就いていた。
省内の者達と意見が合わず、安場は官界から身を引こうと思っていた。
大久保は、自宅まで訪ねてきて、視察団に同行せよと説いた。
安場は乗り気でなかったが、承諾。
視察団一行は、横浜港を出発、サンフランシスコに上陸した直後に、
安場保和は帰国したいと大久保に申し出た。
安場は、「英語が嫌いで、こういう男が使節団に加わっても、
視察見学の役目を果たすことができない」
大久保は、岩倉具視に相談。
岩倉のもとへ呼ばれた安場に向かって、
「ここまでの旅費が無駄になる」というと、
安場は、「役にも立たぬ男が、この先2年間も欧米をうろつき回ることの
方が、よっぽど国費の無駄遣い。私は租税権ノ頭です」
岩倉は、「租税権ノ頭は、税を取り立てることだけを考えればいい。
使い道のことまで心配するナ」
安場は、「自分が無用の人間だとわかったら、
さっさと引っ込むのもご奉公のうちです…」と反論。
今の役人、議員に聞かせてやりたい場面である。
安場が、「役人というものも、なってみると案外つまらない。
この辺でお役御免としていただき、浪人になりたい」、
岩倉は、「それはならん…」と、語調厳しく安場を見詰めた。
安場は、「かしこ参りました」というほかなかった。
安場保和は、租税権ノ頭を免ぜられると、新たに福島県令に発令。
これが、後藤新平の運命に大きくかかわり合ってくる。
縁は異なものというが、不思議に思う場面である。
◆安場が福島県令に着任
後藤は、安場が明治4年に東京へ出た時、
太政官荘村省三宅で酷使されていた。
新平は安場にすがりたい思いであったが、思いとどまり、
そのうち「逆賊論」で荘村家を飛び出した。
水沢に帰ってみれば、3秀才とうたわれた山崎周作、斎藤実の2人は
新平が水沢から東京へ出発した1年前と違って、
山崎は嘉悦氏房に愛されて熊本洋学校に通い、
斎藤は東京で海軍の学校で勉強中。
水沢に帰ったのは明治5年早春、
父十右衛門は息子新平の心境を察して、安場がいてくれたならと
思うとともに、安場は岩倉視察団の一員として海外旅行中であり、
新平ともども不運を嘆いていた。
そういった時期に、安場保和は福島県令になった。
安場は、水沢時代に史生(書記)として使っていた岡田光裕に
手紙を書き、福島県へ転任して仕事をする意思はないかを尋ねた。
岡田光裕は、水沢時代に後藤新平が給仕していた頃、
安場に依頼されて新平を自宅に下宿させ、世話をした仲。
岡田は、安場の手紙に感激し、承諾。
岡田は、結婚して阿川と改姓。
安場が、福島県令として着任早々に着目したのは、
安積郡一帯の広大な荒野。
旧米沢藩士中条政恒を起用し、開墾事業を担当させて実績を挙げた。
新事業の進展をみて安場は、後藤新平のことを思い出す。
気の強いあの少年がどうしているか。
ある日、阿川光裕が打ち合わせに、勤務先の須賀川支庁から
本庁を訪ねてきた。
用件が済み、安場が阿川光裕に尋ねた。
「後藤新平はどうなっているか」
阿川は、「…実は、新平は荘村さんの家にはおりませぬ」
http://www.iwanichi.co.jp/feature/gotou/item_11484.html
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