(岩手日日 2009年4月2日~)
後藤新平が、「朝敵論争」で喧嘩をし、郷里水沢に帰ってきたが、
そのころ明治初年の詔勅、御誓文等の類を見ると
維新などという言葉は、ほとんど使われていない(『幕末史』半藤一利著)。
革命で徳川家を倒したものの、民草はやがて薩長が衝突し、
諸藩が再び動き、天下をあげての大乱となることを予測。
狂歌がある。
「上からは明治などといふけれど 治まるめい(明治)と下からは読む」
後藤の血にはそれが流れていて、朝敵論が出た時、
主人に向かって、「それはないだろう」と開き直って古里に帰った。
父十右衛門は新平を迎えて、新平の心情をどう思ったか?
◆暴れん坊の少年
安場保和が、岩倉使節団から外れて日本へ戻り、福島県令に任命。
安場は、胆沢県大参事時代に新平を下宿させて世話をしていた
岡田光裕(阿川と改名)を福島県に呼び寄せ、
須賀川支庁勤務の職に就かせた。
阿川光裕は、新平の父十右衛門に手紙を出した。
「令息を、このまま片田舎に埋もれさせるのは誠に惜しい。
福島県では、須賀川に医学校を設立し、生徒を募集。
令息を将来、医者にしてはどうか」
新平には、もっと大きな志があった。
人の病を治すより、国家の病を治す人物になりたいという気宇。
維新の元勲の功業を、少年のころから見て成長した彼にとって、
国運を双肩に担って、天下に号令することこそ男子の本懐、
他のことは一生を捧げるに値しない閑事業。
そう思いつつも、阿川光裕には恩がある。
その裏には、安場保和が構えていると知る。
“申し出”を受けなければなるまいと考える新平は、
阿川光裕に手紙を出した。
阿川の返書は、「医者になれ」であった。
それはまた父十右衛門の意思でもあったろう。
新平は、福島県須賀川支庁官舎に阿川光裕を訪ねた。
阿川は、新平に「医学をする決心はついたのか」と尋ね、
新平は決心した-と答えた。
新平は、日本の「羅針盤」といわれるが、
少年のころの新平は暴れん坊と言われている。
しかし、単なる“きかん坊”ではない。
理不尽な他人の言には、断固とした姿勢で応ずることが大事であると
教えているのが彼の性格。
◆緒方洪庵と「学問のすすめ」
須賀川医学校の教育は、「正則」と「変則」の区別があった。
正則は教科書に英語の原書を用い、変則は翻訳書を使用するもの。
明治の教養人は、英語がうまかったと聞かされたことがある。
このような制度があったからだろう。
正則の修業には、長い年月と多額の費用がかかるが、
一度修得した技術は応用が出来、深い専門の研究に進むことが可能。
変則は速成なだけに、与えられた知識の外に出ることができず、
医者ならば風邪を治す診断ができる医者がせいぜい。
阿川にどっちの道を選ぶかと新平は聞かれて、
「正則の課程で、心ゆくまで研究したいと思いますが」、
「それが本当だな。学問を志す以上、そこまで徹底するべきだ」
新平は17歳、頭に浮かんだのは高野長英か、緒方洪庵か。
高野長英ではなく緒方洪庵であろう。
高野長英は親族として知られている。
天下国家を治める「医師」を目指すつもりならば、
緒方洪庵を目指す新平を想像する。
緒方洪庵は、1810(文化7)年備中足守出身、
1863(文久3)年に江戸で没した、江戸時代の代表的蘭学者。
17歳で大阪に出る。その後、江戸に出て坪井信道に学ぶ。
長崎に行き、蘭医から直接蘭学を学び、29歳で大阪に戻り開業。
蘭医としての名声が高まるとともに、全国から患者、教えを乞う者が
大阪に集まり、大阪の河原口に適々斎塾を開き後進の教育に当たった。
門下生が1000人超、橋本左内、大村益次郎、福沢諭吉、大鳥圭介ら
国家有為の人材が輩出。
文久2年、新渡戸稲造が生まれた年、幕命を受けて
江戸の西洋医学所(東大の前身)頭取に。
著書『病学通論』は、日本最初の病理学書。
後藤新平が、東京の荘村家で逆賊論を戦わせて水沢に帰る頃、
福沢諭吉の著書『学問のすすめ』第一編が発表。全17編、
明治5(1872)~9(1876)年に分冊として発行。
明治13(1880)年、一冊の本として出版。
現代語版初版が、「ちくま新書」から斎藤孝訳で出たのは2009年2月。
『学問のすすめ』は、日本人が書いた書物の中で最も有名なものの一つ。
現代訳を参考にし、『学問のすすめ』を取り上げたい。
『学問のすすめ』は、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
の、あの有名な言葉から始まる。
「天が人を生み出すに当たって、人はみな同じ権理(権利)を持ち、
生まれによる身分上下はなく、万物の霊長の人として身体と心を働かせて
この世界のいろいろなものを利用し、衣食住の必要を満たし、
自由自在に互いに人の邪魔をしないで、それぞれが安楽に
この世を過ごしていけるようにしてくれているということ(以下略)」
『学問のすすめ』は、緒方洪庵に学んだ福沢諭吉によって、
明治5年2月に第一編が出版、最後は第17編。
http://www.iwanichi.co.jp/feature/gotou/item_11634.html
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