2009年7月3日金曜日

永田七恵さんを悼む 女子マラソン先駆者

(朝日 2009年6月29日)

27日、53歳の若さで死去した永田七恵さんは、
女性がフルマラソンを走ること自体が常識外れ、と
思われた時代からマラソンに取り組んだ。

女子マラソンが初採用された84年ロス五輪代表に。
次に続く選手が歩む道を切り開いた。

素質に恵まれていなかったが、
それを補うだけの努力をする情熱をもっていた。

郷里の岩手県で教員を務めるかたわら、競技を続け、
東京国際女子マラソンに79年の第1回から出場。
名伯楽といわれた故中村清・エスビー監督に弟子入り、
エスビー入り前にも、毎週日曜日に指導を受けるため東京に通った。
まだ東北新幹線の開業前。夜行列車で往復。

中村監督の「天才の力は有限。努力は無限なり」
という言葉が好きだった。
本人も生前、マラソンに取り組む理由をこう語っていた。
「走ることだけは、わたしを裏切らなかった。
努力すれば、努力しただけ返ってくるんです」

中村監督との二人三脚で、第5回東京国際女子マラソンで
日本選手として初優勝、ロス五輪で19位という結果を残した。
重圧のかかる舞台でも動じなかった。
「だって、中村監督がついていますもの。それは強いですよ。
この人がいれば絶対大丈夫。いつもそう思っていました」
2人の信頼関係は絶大だった。

昨年11月、東京国際女子マラソンが幕を閉じる際、
シンポジウムに出席。
4大会連続でとっていた五輪女子マラソンのメダルが
北京で途切れたことを残念がった。
「スピード時代になっているけど、日本人は頑張る気質があるから、
結果が出せると信じている。絶対復活して欲しい」

これが、日本の女子マラソン界に向けた最後の言葉に。

◆「よく耐えた」、「努力の天才」

エスビー食品でチームメートだった瀬古利彦さん(52)は、
「彼女がいなければ、今の女子マラソンの繁栄はない」
ともに、故中村清氏の指導を仰いだ。
「七恵ちゃんは、学校の先生を辞めて、20代半ばから
取り組んだから大変だった。
練習でも私生活でも、とにかく中村監督を信じてやっていた。
よく耐えたと思う」

中村監督が厳しく言っていたのは、体重の管理。
やや太めだった永田さんに対し、
毎日、「体重、体重」と言っていたことを思い出す。
「東北人だからのんびりしていた。
あれだけ怒られても、感じてないのかなって思うくらいに平気だった。
大物だったなあ」と故人をしのんだ。

ロス五輪女子マラソンにともに出場、途中棄権だった
増田明美さん(45)は、「七恵さんがいたから私も頑張れた。戦友だった」
永田さんを「努力の天才」と評する。
「市民ランナーから上がってきたけど、
中村さんのもとで洗練されていった。五輪で抜かれた時は悔しかった」

現役当時はお互いを意識して、ほとんど口を利くことはなかった。
それが、昨秋のシンポジウムで「十何年ぶり」かに再会、
現役時代の話に花が咲いた。
「これから、いっぱい思い出話をして、
たくさんの時間を共有できると思っていた。悲しいです」と言葉に詰まった。

http://www.asahi.com/sports/spo/TKY200906290108.html

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