(朝日 2009年6月29日)
27日、53歳の若さで死去した永田七恵さんは、
女性がフルマラソンを走ること自体が常識外れ、と
思われた時代からマラソンに取り組んだ。
女子マラソンが初採用された84年ロス五輪代表に。
次に続く選手が歩む道を切り開いた。
素質に恵まれていなかったが、
それを補うだけの努力をする情熱をもっていた。
郷里の岩手県で教員を務めるかたわら、競技を続け、
東京国際女子マラソンに79年の第1回から出場。
名伯楽といわれた故中村清・エスビー監督に弟子入り、
エスビー入り前にも、毎週日曜日に指導を受けるため東京に通った。
まだ東北新幹線の開業前。夜行列車で往復。
中村監督の「天才の力は有限。努力は無限なり」
という言葉が好きだった。
本人も生前、マラソンに取り組む理由をこう語っていた。
「走ることだけは、わたしを裏切らなかった。
努力すれば、努力しただけ返ってくるんです」
中村監督との二人三脚で、第5回東京国際女子マラソンで
日本選手として初優勝、ロス五輪で19位という結果を残した。
重圧のかかる舞台でも動じなかった。
「だって、中村監督がついていますもの。それは強いですよ。
この人がいれば絶対大丈夫。いつもそう思っていました」
2人の信頼関係は絶大だった。
昨年11月、東京国際女子マラソンが幕を閉じる際、
シンポジウムに出席。
4大会連続でとっていた五輪女子マラソンのメダルが
北京で途切れたことを残念がった。
「スピード時代になっているけど、日本人は頑張る気質があるから、
結果が出せると信じている。絶対復活して欲しい」
これが、日本の女子マラソン界に向けた最後の言葉に。
◆「よく耐えた」、「努力の天才」
エスビー食品でチームメートだった瀬古利彦さん(52)は、
「彼女がいなければ、今の女子マラソンの繁栄はない」
ともに、故中村清氏の指導を仰いだ。
「七恵ちゃんは、学校の先生を辞めて、20代半ばから
取り組んだから大変だった。
練習でも私生活でも、とにかく中村監督を信じてやっていた。
よく耐えたと思う」
中村監督が厳しく言っていたのは、体重の管理。
やや太めだった永田さんに対し、
毎日、「体重、体重」と言っていたことを思い出す。
「東北人だからのんびりしていた。
あれだけ怒られても、感じてないのかなって思うくらいに平気だった。
大物だったなあ」と故人をしのんだ。
ロス五輪女子マラソンにともに出場、途中棄権だった
増田明美さん(45)は、「七恵さんがいたから私も頑張れた。戦友だった」
永田さんを「努力の天才」と評する。
「市民ランナーから上がってきたけど、
中村さんのもとで洗練されていった。五輪で抜かれた時は悔しかった」
現役当時はお互いを意識して、ほとんど口を利くことはなかった。
それが、昨秋のシンポジウムで「十何年ぶり」かに再会、
現役時代の話に花が咲いた。
「これから、いっぱい思い出話をして、
たくさんの時間を共有できると思っていた。悲しいです」と言葉に詰まった。
http://www.asahi.com/sports/spo/TKY200906290108.html
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