大船渡市の旧家にあった銅製の馬頭観音像が、
南北朝時代の懸仏であることが分かった。
盛岡大学の大矢邦宣教授によると、
県内で馬頭観音の懸仏が出てきたのは初めて。
この仏像が納められていた厨子には、
「天文十一年三月十三日馬頭観世音横澤平重持」の墨書、
未解明部分が多い気仙の中世史を繙くうえでも注目される資料。
馬頭観音像を所蔵しているのは、地方公務員・上村弥さん(55)。
叔父にあたる上村民雄さん(62)によると、
仏像はかなり以前から、奥座敷の床の間に木箱に入ったまま
飾られていた。
馬頭観音像を、県文化財保護審議会委員で、
大船渡市文化財調査委員でもある大矢教授が注目。
調査の結果、この仏像は鋳銅製の馬頭観音座像の懸仏
(高さ8・7㌢、台座幅5・3㌢)であることが判明。
懸仏は、丸い鏡の中心に仏像を配置した仏具で、
寺社に奉納され、壁にかけて信仰されていた。
平安時代から造られはじめ、中世に盛んに製作。
大矢教授は、「県内では、300体ほどの懸仏が見つかっているが、
いろいろな仏像がある中で、馬頭観音の懸仏は初めて。
しっかりとしたつくりで、顔の表情もいい。
鋳造年代は、南北朝から室町時代、西暦1400年前後では」
馬頭観音の懸仏は、鏡のない仏像部分で、
ハスの台座部分が一部欠損。
ハスの台座部分が一部欠損。
形状は頭上に馬頭をいただき、炎髪で顔は三面。
正面のみ鼻や口がついて、胸前に馬頭印という手の組み方。
内側が空洞で、頭上に取付の突起があり、銅鏡と一体だった。
大矢教授は、仏像の表面に金メッキをしていた可能性が強い。
仏像が納められていたスギ製の厨子(高さ16・8㌢、幅9・2㌢)の
箱書きにあった天文11年(1542)と、横澤平重持という名前に注目。
『気仙古記』などによると、平重持は葛西氏の金山係で、
越喜来に来て熊野堂(現・新山神社)を建立。
同神社に、重持が納めた「天文十一年の順礼札」(県指定文化財)、
その年号が厨子の墨書と付合。
熊野信仰や重持のルーツ、葛西統治下で気仙郡の砂金採掘りとの
かかわりも興味深いが、仏像について
「天文11年の年号よりも、この馬頭観音像は古いことは間違いない」
弥さんの妻、江美子さんは、「かつて銅鏡の部分も家にあった、
と聞いています。思っていたより古い仏像だったので、驚きました。
これからも大切にお守りしたい」
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