2009年7月7日火曜日

特集:後藤新平の真髄 10 北里柴三郎の抗議

(岩手日日 2009年4月2日~)

新平は、明治16(1883)年1月25日、内務省御用掛を拝命。
当時、内務省衛生局は、大学生の秀才を採用。
内務省衛生局には、大学出の医者は暁の空の星ともいえるように
少なかった。その中に、新平の姿は目立つ存在。

同じころ、内務省衛生局に入ったのは、新進の学士北里柴三郎
新平は、月給100円。北里は、70円と少ない。
見比べて、北里は長与専斎衛生局長に抗議。

「私は、仮にも最高学府を出ています。後藤君は、福島あたりの、
あやしげな医学校の速成課程を修了したにすぎない。
私は、どうしてそういう男の下風に立たねばならないのか」

北里は、嘉永5(1852)年12月20日、肥後に生まれ。
東京医学校(現東京大学医学部)卒業後、1885年から91年まで
ドイツに留学、R・コッホの下で細菌学を学んだ。
1889年、破傷風菌の純粋培養に成功し、毒素を抽出、
これを兎に注射して血清に抗毒素をつくらせ、
この血清を人に注射することによって破傷風を予防、治療するという
破傷風の血清療法を、90年12月3日に発表。
これは、世界の学界を驚嘆させた。

帰国後、92年に設立された伝染病所長に就任、
香港に出張し、腺ペスト菌を発見したが、評価されて1908年、
イギリス王立教会の名誉会員に選ばれた。
14年、政府は伝染病研究所を内務省所轄から文部省に移し、
東京大学付属を決定、これに反対し所長を辞め、北里研究所を創立。
24年男爵、慶応義塾大学に医学部を創設、医学教育に当たった。
日本結核予防協会理事長として、結核撲滅に努めるなど、
日本の社会衛生の発展に力を尽くした(1931年6月13日没)

須賀川医学校に学んだ新平であるが、内務省衛生局の職員から、
北里のように不満を持つ者も。
内務省衛生局長長与専斎はどう答えたか?

◆学歴超えた、新平の報酬

長与は、天保9(1838)年8月28日、長崎生まれ。肥前大村藩士。
安政1(1854)年大阪に出て、日本洋医学の先駆者緒方洪庵の門に。
蘭学、医学を修め、長崎でオランダ医師M・ポンぺ、C・マンスフェルトから
蘭医学を学び、長崎医学校学頭となる。
明治4年、東京に出て内務省に入り、欧米を回って医学教育、
医事行政を視察、帰国後、種痘法を制定、牛痘腫継所を設置。
東京医学校長、元老院議官、晩年は貴族院議員となる。

北里は、後にドイツ留学で新平とは留学仲間となる。
出会い当初の内務省衛生局では、後藤の月給は上で、
北里とは格段の差が。
北里は、これに不満の声をあげて長与にかみついた。

北里の抗議に、長与は相手が納得できるような回答ができなかった。
「後藤君は、前任地の俸給が80円。新しく招聘するには、
これまでより高い額で来てもらうのが慣例で、100円に。
後藤君は、名古屋では月給以外の収入が2~300円。
内務省に入る際、本務に専念、自宅開業のようなことは一切しない覚悟。
彼にとっては大変な減収に。そういうことも、考えてやる必要があろう」

「それはわかったが、私の月給70円というのはわからない」と北里。
長与は、「初任給は、官制で決まっている。みだりに変更はできない。
実力があって、勤務に精励する人は昇給するから、
もし君が真に大学出にふさわしい実績をあげるなら、不均衡は是正される」
長与は北里をなだめ、不満はあろうがと、納得してもらった。

新平は、須賀川医学校の正則コースではなく、「変則」という名の
速成コースを2年間の修業、教育を受けたにすぎない。
それなのに、就職してからの評判はよかった。
速成コースだが、天性的な素質を持っていた。
実力は、外科医としては抜群。

◆衛生局長代理を務め

このころから新平は、すっきりした美男の本領に帰って、
当世風の紳士に変容。
学者という空気を、身辺に漂わせていた。

北里の件が収まり、長与局長から新平が呼ばれた。
「突然だが、熱海にいる岩倉具視右大臣閣下から、
何かおたずねがあるとのことで、すぐ来るようにとのこと。
私は用があるので、私の代理を務めてくれないか」

長与は、人物を見出して連れてきたという思いがあった。
新平を試してみようと考えて、代理派遣という手を使った。
新平は人に認められ、抜擢されてやって来たことを顧みて、
置かれた立場を理解。

長与命令では、宮内省御用掛の肥田浜五郎の同行を求めていた。
肥田は来ていなかった。
新平は一人、岩倉公の泊まっている相模屋へ行き、面会を求めた。

女中が襖を開けると、地味な色合いの寝巻きかドテラだか、
ありったけ着込んで、それでも寒そうにしている小柄な風采の
あがらない老人がいた。
明治4年、米欧視察団の団長岩倉具視その人。
随行員として参加し、サンフランシスコで一行から離脱して
途中帰国したのは、安場保和。
長与は、視察団に随行することを嘆願して加わった経緯が。

岩倉は、新平と会って6カ月後の明治16(1883)年7月20日死去。
享年59歳。

http://www.iwanichi.co.jp/feature/gotou/item_12716.html

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