2009年7月8日水曜日

特集:後藤新平の真髄 11 医者から政界に関心

(岩手日日 2009年4月2日~)

岩倉具視が亡くなる約6か月前に会い、
板垣退助が暴漢に襲われて、その治療に急行する
後藤新平をみて思うことがある。

明治政府が、米欧使節団を明治4年に差遣した時の全権大使、
右大臣その人であり、帰国後、征韓論を主張した
西郷隆盛、板垣退助らが敗れ、征韓反対派の岩倉具視、
大久保利通らが政治の主流になるが、
両派に、新平は存在感を印象付けた。

安場保和は岩倉、大久保に気脈を通ずる官僚。
新平は、安場の二女和子と結婚、医療行政官僚として前途も開かれる。
行政官として北里柴三郎と机を並べ、
北里が新平の給料が高いと上司に文句を言う。

◆新渡戸の後藤夫人回想録

新平の生涯にとって、安場和子と結婚したことは最も誇れる出来事。
新渡戸稲造は、台湾総督府時代の和子夫人の回想録を、
偉人群像「後藤伯に対する和子夫人の内助」と題して書き、
その人柄を高く評価。

「後藤伯について語るものは、和子夫人の功を見逃してはならぬ。
和子夫人は明治初期の官界に、その名を轟かした安場男爵の息女。
後藤伯が少年時代、安場男爵が彼を見込んで、その娘を娶らした。

彼女は、頗る厳格な古武士的家庭に教育を受けた。
折々わが輩も親しく話を聞いたが、衣食に関する心掛け、
身のたしなみ、言葉遣ひ、一部始終両親の直接監督の下に鍛へられ、
あの喧しい後藤伯の夫人となっても、何の不足もなかった。

彼女の耐忍の力の偉大なることは、わが輩しばしば目撃。
日々の修養に心掛けられるは、誰人も夫人に会った人の気がついたこと。

わが輩、初めてこの夫人に紹介を得たのは、台湾赴任当時。
台北に着して数日ならず、時の長官々邸に晩餐に招かれ、
初めてこの人を知り得たが、その後一、二週間を経て、
夫人が草花を非常に愛翫さるる由を聞いて、
一日植物園に御夫婦を招いた。
伯は、例の通り大ざっぱな話のみで時を移したが、
夫人は細かに熱帯植物の名やら、性質、使用法について質された。

その質問が、單に好奇心のみでなく、真面目にして、
且実用の考へより出ることが明らかで、
わが輩は彼女の頭脳の細やかなることに注意を惹かされた。

この時、わが輩が彼女に如何なる印象を与えたかは、
その後数年を経て、彼女の口から聞くことが出来た」

和子夫人に対する新渡戸の聡明談は、なお続く。

「私は台湾に参りまして、別に友達もなく、他に慰みも、稽古をすることも
なかったものですから、草木が好きなため、それを幸ひ
熱帯植物の名だの用途等を知りたいと思ひ、色んな方に伺ひましたが、
御存じの方が少ないのに困ってをりました。
ある時、このことを主人に話しましたら、主人の申しますのに、
もう少し待ってをれば、新渡戸といふ農学博士が来るやうになってゐるから、
さうすれば何でも解るといって慰めて呉れましたので、
私は貴方の御赴任を待ってをりました…(以下略)」

新渡戸と和子夫人との出会いと、その感想記は面白い。
新平の歩みと関連して、今後も引用することにして、
板垣についてもう少し説明しておこう。

◆明治維新の指導者を知る

板垣退助は、天保8(1837)年4月17日、高知生まれ、
明治維新では土佐藩革命派を代表して軍事、政治の両面で、
重要な役割を演じた。
維新後は、自由民権運動の最高責任者として、
議会政治の確立のために東奔西走し、近代日本の民主化に貢献。
1881年、自由党を創設、総理となる。
翌年、岐阜に遊説の際に刺客に刺され、
「板垣死すとも自由は死せず」

新平は、板垣を知ることによって、
明治維新の指導者を理解する機会を得た。

慶応3(1867)年、薩摩、長州、土佐藩が討幕の密約を
結んだことが契機となり、維新の動乱は成功に。

板垣は、維新の功績によって、朝廷から永世禄1000石を下賜され、
土佐藩は家老に昇格、780石に加増、陸軍総督とした。
明治3(1870)年大参事に任命、権大参事福岡孝弟と協力して
藩政改革を試み、特に「土民平均の理」を掲げて、
個人の平等を改革の核とした。
3年後、高知に設立された立志社を中心に、
自由民権運動が板垣の志として引き継がれる。

明治10(1877)年2月、西南戦争が起こると、
高知の立志社にも風雲に乗じようとする運動が激化。
立志社の幹部は、ことごとく逮捕。
板垣は、愛国社の再興をはかって、遊説員を各地に派遣、同志を集め、
明治11(1878)年9月、第一回会議を大阪で開いた。

愛国社は、明治13(1880)年3月、国会期成同盟と改称。
4月、片岡、河野広中を代表とし、政府に国会開設要望書を提出。
政府はこれを拒否、時勢の推移と世論の激化に抗しきれず、
翌年10月12日、10年後を期して国会を開設する旨の詔勅。

10月15日、国会期成同盟を母体とする自由党が組織。
板垣は、その総理に就任、各地を遊説中、
明治15(1882)年4月5日、岐阜で暴漢に襲われた。
負傷で窮地を脱したが、新平は、傷の手当てに尽くし、
板垣の人となりを知り、医者から政治に開眼する機会。

http://www.iwanichi.co.jp/feature/gotou/item_12858.html

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