(岩手日日 2009年4月2日~)
新渡戸稲造の和子夫人に対する話。
「…一体人と交わるには、弱点をはっきり心得、何か一つでも
とり柄があれば、親しみが深まるもので、伯(新平)、伯より以上に
わが輩の失敗やら短所やら面と向ってわが輩に語り、
(和子夫人)あるいは面白をかしく他人にもよく話された。
わが輩も、この夫婦に対して何の隠すこともしなかった。
隠したとして、彼等の慧眼がわが輩の薄っぺらを見通すであろうと、
他人に語らぬことも、この二人には遠慮なく告げた。
且秘密を告げても、わが輩には何の心配もなかった。
和子夫人は、聡明なうえ、人情味が深く意思の強い人。
人の性格を見るところがなかなか鋭かったから、
度々わが輩に語られることもあったのは、
『後藤はあの通り大ざっぱですから、誰にでもお交りをし、
随分、望ましくない人も、周囲におりますので、
これだけが誠に心配でなりません。
某の如きは頭脳もよし、弁舌も爽やかですが、
女の眼には偽物のように映ります。あなたはどういう観察ですか』
などという質問はしばしばあった。
夫人の名指しした怪しげな人は、早速伯に迷惑をかけた。
一時伯の怒りに触れたものでも、夫人が『あの人はいい人なのに、
何ゆえあんなに、面と向かって腹を立てたのか、気の毒でなりません。
折があったら、貴方からも説明して下さい』などということも、
二度や三度のことでなかった」
読者には、新平の性格を知る参考として記した次第。
◆医師資格を得るまでに
新平は、福島県小学第一洋学校に入学、途中で辞め、故郷に戻る。
須賀川医学校に転じて、生徒寮に。
医師を目指す新平のスタート。
福島県病院六等医生となり、医学校生徒取締り内舎副会長として
月給3円を支給。
五等医生を拝命し、月給5円を支給。
この時期が、医師としての修業(卒業)とみていい。
生徒寮内外舎長となり、月給8円を支給。
愛知県病院三等医を拝命、ローレツ博士の指導を受ける。
医術開業試験を合格、愛知県医学校四等訓導、
大阪陸軍臨時病院の傭医(日給60銭)、医術開業免状下付。
新平が、医師資格を正式に得るまでの道程を記したが、
岐阜で暴漢に襲われ、名古屋に名医がいると板垣周辺が聞いて、
往診を求められ、新平が急行した。
◆板垣退助、会津藩に悟る
板垣は、官軍の将として東京から東北へ進み、
会津藩境に入った時の所感を残している。
「境土に臨むや、あにはからん、一般の人民は妻子を伴い、
家財を携えことごとく四方に遁逃し、
一人来てわれに敵する者なきのみならず、
わが手足の用をなし、賃金をむさぼりて、てんとして恥じざるに至る。
われ深くその奇観なるを感じ、いまだかつてふところにこれを忘れず…」
これには前段がある。
板垣らが会津城を攻略し、藩主松平容保が妙周寺に退去するとき、
警衛に当たった二川元助の陣地に、会津の一農民が
一かごの焼芋を持参、藩主へ献上の手続きを依頼。
後日交代して本営に引き揚げた二川が、これを同僚に話し、
奇特のいたりであると感嘆しているのを聞き、
板垣は一人黙然とし、次のように感想を述べた。
「…兵を進めて会津に入らんとするに当たり、自らおもえらく、
会津は天下屈指の雄藩にして政善に民富む。
もし上下心を一にし、力をもって国に尽さば、わが三千未満の官軍、
容易にこれを降さんや。
よろしく、若松城下をもって墳墓となし、たおれて後ちやまんのみと」
板垣は、「百姓が領主に焼芋を献じた美談」を聞き、
一座が嘆賞しておかないのを知り、はじめて悟るところがあった。
今、国が亡び、家破れ、君主が面縛して降服するとき、
領民である農夫が一死もって国に酬いようとしないのはなぜか?
その楽を共にしないものは、その憂いを共にしないゆえんであって、
会津藩がその国の亡ぶのにおよんで、わずか三千の武士だけが
これに殉じ、農・工・商の民衆が逃げてしまって、
その国をかえりみないのは、この道理にほかならない。
板垣は後年語っている。
「是を以て今日の策を断ずるに只だ他なし、四民均一の制を建て、
楽を共にし、憂いを同ふせんのみ。
而して後、始めて百年の大計成るべき也。富強の基礎固かる可き也と」
(『史伝板垣退助』絲屋寿雄著から)
板垣が言いたいのは、民衆が藩主を支持せず、
かえって官軍を支持したから、三千の武士だけがいかに壮烈に戦っても、
会津藩はついに官軍に勝てなかった。
住民の全部が、国のために喜んで死ねるような体制を
どうしたら作り出すことができるか。
板垣にとって、宿題となった。
やがて政治家を目指す新平にとっても大きな課題となるが、
新平の行動、実践を待ちたい。
http://www.iwanichi.co.jp/feature/gotou/item_12955.html
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