(岩手日日 2009年4月2日~)
27歳の後藤新平が、18歳の安場和子と結婚。
新平が、内務省御用掛を拝命してから10カ月後、
安場保和が嫁入りする娘に一口の日本刀を与えた。
安場の先祖一平が大石内蔵助を介錯した記念の刀。
新宅は、麻布材町に位置し、表の部分は後藤家、
裏に安場家と並んでいた。
安場が新平の将来を期待していた。
胆沢県の給仕時代から、腕一本で自分自身の道を開いていく
たのもしい若者と映じたのが新平。
当時務めていたのは、内務省衛生局だったが、
新平は局長長与専斎に才能を見込まれ、側近として重用。
長与は新平を見出し、活躍の場を与えた。
長与家が仕えていた大村藩の先祖は、
キリシタン大名大村純忠など開放的空気が支配、その雰囲気で、
祖父俊達が中年のころからオランダ医学を修める。
それが不幸の始まり。
蘭医は、キリシタンの妖術で国禁の邪法として職を免ぜられた。
幕府の取り締まりも厳しく、キリシタンに対する警戒心も強まった。
長与家も蘭法を捨てよ、と勧められた。
それに屈する俊達ではなかった。
父中庵は若くして亡くなり、祖父の志は孫専斎に伝えられ、
俊達は17歳の時、大阪に出て緒方洪庵に学んだ。
そこで福沢諭吉と知りあい、交友となったが、
福沢が江戸へ去った後、洪庵塾頭となる。
後年、新平は慶応義塾の塾長候補となる。
長与の推薦によるもの。
福沢と長与が交友関係にあったことで、福沢が慶応義塾の
「塾長」を辞めるに当たり、長与に相談、
残念ながら新平は慶応義塾以外の出身者ということで猛反対に。
新平の見識を物語るエピソード。
◆建白書好きが始まり
新平の建白書好きは、有名。
誰が書いた「新平論」にも出てくる。
「建白書」とは意見書のこと。
新平は明治14年、愛知県病院長兼愛知県医学校長に就任。
明治11年、愛知県病院二等診察医時代、衛生行政に関する建議書を
知事(県令)を通じて内務省に提出。
同省衛生局長、長与の目にとまった。
これを読んだ長与は、その識見に感服し、
新平は東京出張の折に長与を訪ね、先に提出した建議書について説明。
新平は22歳、説明だけでの長与との出会い。
新平は明治13年1月、愛知県内の漢洋医を集め、
「愛衆社」という団体をつくった。
医師会と大日本私立衛生会を一体とした組織。
長与はこれを知り、新平の見識もさることながら、行動力に感じ入った。
新平と安場の関係が第一なら、第二の恩人ともいうべき、
長与との因縁を深くする始まり。
新平の建白書はこれで終わらない。
「連合公立医学校設立の儀に付き建白」をつくった。
当時、各県がつくっていた県立医学校を、経費や設備の面から
数県が連合すべしというもの。
愛知、岐阜、三重の3県医学校の連合を実現すべしとの意見。
長与はこれを知り、新平に「適切の御意見」という書を送った。
長与は、「感服の外御座なく候」、「この上なき御盛策につき、
十分に御雄弁御揮い希い奉り候」と激励。
新平は、明治15年2月、長与から内務省衛生局出仕の勧誘を受ける。
◆「長与局長の懐刀」へ
専斎にとって、新平を知ったことは人材の大発見。
このことが世に知れわたると、愛知病院勤務に留任を求める運動が。
それを振り切って、新平は長与専斎の求めに応じた。
明治16年1月、時はよしと、安場は娘の和子を
27歳の新平と結婚させる決断をした。
長与によって内務省衛生局勤務となった新平の身分は内務省御用掛で、
いわば嘱託だった。
月給は100円。当時としては思い切った高給。
これに文句を言ったのは北里柴三郎で、彼は新平より30円安かった。
新平が専斎の下に入った時の内務卿は山田顕義、
大輔は土方久光、少輔が芳川顕正、衛生局長の長与専斎。
同僚の御用掛には石里忠悳、高木兼寛、長谷川秦、柴田承桂ら。
初めに新平が与えられた任務は、地方衛生の視察。
新潟、長野、群馬の3県を視察。
調査は実に詳細だったと評価。
新平を大風呂敷というが、当たらない。
飲食物、食器、衣服、家屋、運動、清潔、身体、体力、伝染病の増減、
諸病の増減、売薬需要など報告書は21項目、7500字に及んだ。
こうした実績を上げて、彼は間もなく衛生局東京試験所長心得、
医術開業試験主事となった。
専斎の信頼を厚くしたからである。
新平が出世の階段に立ち、各種事業の企画、立案に当たり、
それが実行されるに及んで、次第に周囲は新平を
「長与局長の懷刀」と呼ぶように。
明治23年、在官のまま私費によって、ドイツ・ベルリンに留学。
コッホ博士のもとに行き、そこの伝染病研究所に北里柴三郎が留学、
研究仲間となった。
北里は、肥後阿蘇郡小田村(熊本県阿蘇郡小国村)の出身。
明治8年、北里が東京医学校に入学、専斎は校長。
長与と北里は師弟関係。
晩学の北里は明治13年、31歳で東京大学を卒業、
衛生行政に携わるつもりで三宅秀東京帝国大学医学部長を訪れ、
三宅は長与専斎を紹介。
長与は承諾したが、入ってみて、後藤新平の月給が高い、
最高学府を出た自分は、田舎医者の下風に立つことは出来ぬと文句。
それが効いたか、明治19年1月、北里はドイツのコッホの下に官費留学。
遅れて新平は、明治23年に私費留学。
長与がみせた配慮を感ずる。
新平と北里の二人は、ドイツ留学を通じて友情で結ばれる。
http://www.iwanichi.co.jp/feature/gotou/item_13073.html
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