2009年7月7日火曜日

21世紀の「愉快ナル理想工場」

(日経 2009-06-30)

「白木屋」と聞いて、ピンと来る人はもう少ないかも。
東京・日本橋にあった百貨店で、買収され、東急百貨店日本橋店と
屋号が変わり、1999年に東急も撤退。
現在は、複合商業ビル「コレド日本橋」。

1946年5月、ソニーの前身、「東京通信工業」が
産声を上げたのは、白木屋の一角。
3階の粗末な1室を間借りしての船出。

創業の地は、1年もたたないうちに「ダンスホールの開設」を理由に移転。
次が、北品川の御殿山。
日本気化器製作所(東証2部上場ニッキの前身)が、社員食堂や
倉庫として使っていた300平方メートルほどのバラック建ての建物。
「床はデコボコ。雨漏りがするので、傘をさして仕事をした」と
創業メンバーの1人が回顧。

御殿山への移転から3年後の50年、国産初のテープレコーダー出荷、
5年後にはトランジスタラジオ「TR—55」が世に出た。
55年、使用を開始した「SONY」ブランドは、
瞬く間に世界に広がって市場を席巻。
62年、訪仏した池田勇人首相がドゴール大統領から、
「トランジスタラジオのセールスマンが来た」と皮肉られた話は有名。

300平方メートルのバラック工場で滑り出した御殿山の「ソニー村」は、
40年後に4万4000平方メートルに拡大。
井深大氏、盛田昭夫氏ら創業者たちのサクセス・ストーリーは、
繰り返すまでもない(ソニー本社は、2007年品川駅東口港南に移転)。

2000年代、画期的な新製品が生まれず、
高コスト体質も指摘され、「ソニー神話」が色あせてきた。
ソニーの挫折は、そのまま日本のエレクトロニクス産業、
製造業全体の先行きを視界不良にしている。

だが、悲観に暮れるのは時期尚早。
日本のものづくり産業を支える新興企業は、決して少なくない。

太陽電池製造装置メーカーのエヌ・ピー・シー(NPC)も、その1社。
東京の下町、荒川区南千住にNPCの本社工場。
前身は、食品メーカー向けの機械を製造していた日本ポリセロ工業。

隣良郎・現NPC社長が入社した92年当時、
日本ポリセロは社員十数人、売上高4億円ほどの零細企業。
技術力では定評があり、主力製品の「柏木式真空包装機」は
食品業界で名が通っていた。

当時の社長が、融通手形を乱発して債務超過に陥り、
92年末、日本ポリセロは清算。
巨額損失事件で、経営の屋台骨が揺らいでいたイトマン
(93年に住金物産に吸収合併)を見切り、
商社マンから転身してきたばかりだった隣氏は、
「『柏木式』の暖簾を何とか残してほしい」と周囲に拝み倒されて、
事業の継承を決意、新会社NPCを設立。

十数人の社員と柏木式真空包装機の営業権、
1億2000万円の負債を引き継いだNPCは、
わずか2年で債務を完済、関係者を驚かせた。

発足間もないころ、南千住の本社工場の賃貸契約が期間満了となり、
土地と建物が競売にかけられ、一時は退去の危機に瀕したが、
主力銀行の大和銀行(現りそな銀行)の融資によって、居抜きで落札。
隣氏の経営手腕に対する評価の証し。

飛躍のきっかけは、債務をスピード完済したころ。
取引のなかった大手電機メーカーから、
「おたくの真空包装機を改造した小型の装置が欲しい」との注文。
それも2社から。

当初はクビをかしげたものの、そのうち使い途が判明。
それは、太陽電池の製造工程の1つ。
NPCが納品した機械は、真空状態で加熱・加圧したセル(発電素子)や
ガラス、保護シートをパネルに仕上げる「真空ラミネーター」という装置に。
柏木式で培ってきた真空技術が花開いた。

太陽電池製造装置への参入は、94年。
2年後、米国進出、5年後、太陽電池製造の後工程
(セルの出力検査、自動配線、真空ラミネーター、モジュールの
出力検査の4工程)の機械を一貫生産する体制を整えた。

NPCの強みは、この一貫生産体制。
欧州などのライバルメーカーは、専ら単体装置の製造を手がけている。
アフターサービスなどサポート部門を外注せず、
世界中24時間いつでも自前でトラブルなどに対応できる体制。
顧客の「かゆいところまで手が届く」サービスの提供。

2007年6月、東証マザーズ上場。
08年8月期の連結売上高は93億7300万円、09年8月期は55%増の
145億円を見込んでいる。
営業利益率24%(09年2月中間期)と、収益力の高さも際立つ。

現在、太陽電池製造の後工程に当たるモジュール化装置で、
4割強の世界シェアを6割強にまで高めることを目指している。

市場の成長性を見抜き、一貫生産や自前のサポートなど
独自の体制構築を早急にやり遂げた。
NPCの成功は、柏木式以来の技術力だけでなく、
巧みな経営戦略に負うところも大きい。
6人の取締役のうち、隣氏をはじめ5人がイトマン(関連会社を含む)OB。

取締役会での決定は、「全員一致が原則」。
経営陣に共通する、生き馬の目を抜く商社での数々のビジネス経験が、
世界を相手にした次世代エネルギーの事業で実を結んでいる。

NPCには社長室はなく、隣氏は社員たちと席を並べて仕事。
日本ポリセロが破綻した際、事業継続を引き受けたのは、
自分が断れば「工場の職人さんたちが路頭に迷うことになる」との考え。
その職人技術への信頼が、NPC設立の決断を後押しした。

「真面目ナル技術者ノ技能ヲ、最高度ニ発揮セシムベキ
自由豁達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設」

日本橋の白木屋の3階で創業する4カ月前、井深大氏は自ら起草した
「東京通信工業株式会社設立趣意書」の冒頭にこう書き記している。
終戦の混乱のさなかに立ち上がった、井深氏や盛田氏らの弾む
息遣いが聞こえるようだ。

下町の工場から、世界の太陽電池製造装置メーカーへと飛躍してきたNPC。
往年のソニーに通じるものづくりの理念が、
この会社にも脈打っているような気がする。

http://netplus.nikkei.co.jp/ssbiz/mono/mon090629.html

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